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No.408 どんな薬よりも

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 NHK連続テレビ小説「らんまん」1) の60回では、重病にかかった老女主人タキと医者とが話し合います。

タキ)先生、わしはもう十分生きました。万太郎は自分の道を行き、綾も峰屋を守ってくれますろ。思い残すことらあないのに、願いができてしもうたがです。・・・・わしのひ孫をこの手に抱いてみたい。先生、どんな薬を使うてもえいき、わしを生かして・・・お頼申します。
医師)申し訳ありません。わしには、作れません。申し訳ありません!(両手をつき、頭を下げる医師)
タキ)はあ・・・ほうですか・・・。人には天から与えられた寿命があるゆうに、あさましいことを申しました。
医師)大奥様は・・・ようやく今、自分のための願いをお持ちになったがじゃ!命ゆうがは、まっこと不思議なもんですき。願いこそがどんな薬よりも効くことがあります。

 私は、インフォームド・コンセントは患者さんの心に希望を灯すためのものだと思っています(No.255にも書きました。以来、「馬鹿の一つ覚え」のように言い続けています)。
 インフォームド・コンセントは、患者さんが自分の未来について「希望」「(その人の前に広がる)あかるさ」を持つことができ、「自分を支えてくれる人がここに居る」「自分の人生はよいものだった」という実感を手に入れるためにあるのです。「自分のための願い」2)「残された時間への夢」を支えるためのものなのです。
 ACPに私が懸念しているのは、その正反対の役割を果たしてしまいかねないということです。どんな薬よりも効く(残された時への)願い/夢を膨らませない医療は、医療とは言えないと思います。

 この医者は、相手が大店の老主人だから「申しわけありません」と平伏して謝っているのかもしれません。でも、ほとんどの病気は医者の力だけで治しているわけではありませんし(患者さんの治癒力なしに治る病気はない)、治せない病気をいくらか和らげる(延長している)にすぎないことのほうがずっと多い。相手が誰であれ、「治せません、申しわけありません」という姿勢を、せめて心の中で医者が抱き続ければ、言葉や態度はおのずと「上から目線」ではなくなるのに。どんなに医療が進んでも、そこから足を離さないことはプロフェッショナルの矜持だと思います。(2023.08)

1) 「らんまん」の主題歌「愛の花」のテレビで放送されていない部分を聞いてみると、「亡くなった愛する人」に向けた愛の歌のようです。その歌詞に込められているような思いを遺された人は抱きます。その思いを私たちは耳にすることは滅多にないでしょう。でも、きっとそうなのだろうと思い、そっと見守ることがケアなのだと思います。

2) 「西洋の倫理学は人間が普遍的にどう行為すべきかを論じてきたわけですが、私が個人としてこだわっているのはむしろ血塗られた次元で生きているこの個別的な「私」が自分の一度かぎりの人生をどうしてくかということで、そこが最も大事なんです。」森岡正博/小松原織香との対談「“血塗られた”場所からの言葉と思考」現代思想50巻9号2022 特集「「加害者」を考える」


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。