No.319 おろおろ
コラム目次へ 昨年、一般財団法人水俣病センター相思社の活動をまとめた本が出版されました。永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』(ころから2018)です。
そこで原田正純さんの言葉が紹介されていました。
「強いものと弱いものとの中間に立って、なにが中立か。本当の中立とは少数者の側に立って初めて実現する」
「本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件を作ることでしょ。・・・殴られた方が、『日本がそれだけ一生懸命やってくれるんだったら、もう仲直りしましょう』って向こうから手を出してくるなら話はわかる。」。(「もやい直し」=「ばらばらになってしまった心のきずなをもう一度つなぎあわせる」という意味の造語で、水俣病被害者が提唱し始めたとされる)
原田先生は折にふれ「いちばんの専門家は、医者じゃなくて患者さんだよ」と言っておられたとのことです。
そして、石牟礼道子さんの言葉。
「ああ、あなた、悶え加勢しよるとね。そのままでよかですよ。苦しい人がいるときに、その人の前をただおろおろとおろおろと、行ったり来たり、それだけで、その人の心は少し楽になる。そのままでよかとですよ」
この言葉はケアにこそあてはまると思います。ケアの世界ではしばしば「おろおろする」ことは「いけないこと」「プロとして恥ずかしいこと」と思われがちです。そして、おろおろしていることを悟られないようにしているうちに、いつの間にか私たちは「おろおろする力」を失い、「おろおろすること」そのものを忘れてしまったのではないでしょうか。そこに、患者さんが楽にならない原因の一つがあるのかもしれません。
「みな、やっとの思いで坂をのぼる」というのは、いろいろなしがらみや差別のために長いあいだ口を噤んでいた人々がやっとの思いで語りだした声を書き記したという意味のようです。戦争のことをずっと黙して語らなかった戦争経験者が齢を重ねてはじめて重い口を開くこともあります。患者さんが自らの病の経験を語るまでにも、たくさんの逡巡があり、時間がかかっているのかもしれません。みんな「おろおろしながら」話しているのです。自分の話を聞いて「おろおろ」もしてくれない人には話を続けようと思いませんし、「おろおろ」しながら聞くのでなければ絞り出された話は聞き取れないでしょう。そういえば、宮沢賢治も「寒さの夏はおろおろ歩き」と言っていました。
ガイドラインやマニュアルに則った「無駄のない」診療が推奨されがちな医師教育にも同じことを感じます。患者さんが「つらかったんです」と言ったら、「それはたいへんでしたね」と応えれば良い医者と思ってもらえると書いている人がいました。それはそうなのでしょうが、そこに教育が留まってしまって良いわけはありません。医学教育に携わる人間もまた、自分がおろおろすることに耐える力を失い、おろおろしている若い人を見守る力を失ってきているのでしょう。医療面接演習でも、そつなくこなせる学生・研修医を褒めるだけでなく、「おろおろしてしまう」学生・研修医に共感し、その未来を「応援する」言葉をかけたい。「そのままでよかとですよ」という目を持ち続けたい。(2019.03)