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No.372 カタカナ語

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 「啓蒙」ということは、理性の力で人間を非合理性から解放することであるけれども、同時に、それゆえにこそ「思考や行為における個々人の主体性を希薄化させ、権威によって正当化された価値をもつ ― 理性が定めたとする ― 同一的な目標へと向かわせる暴力性が内在していた」(中村隆文『世界がわかる比較思想史入門』ちくま新書2021)という事態を、アドルノ/ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』(1947年)と呼びました。この「暴力」的な抑圧や画一化に対して抵抗しようとすると、「反理性」「反知性」に陥ることは十分にありうることです。コロナに関して、「ただのかぜ」「マスクなど要らない」「ワクチンは危険」といった言説が生まれるのは、このためかもしれません。コロナに限らず、医学的に妥当な説明であっても、それが「通じない」「受け入れられない」ことは珍しくありませんが、そこに避けがたく漂う「啓蒙的」な臭いが人を遠ざけているのかもしれないとも思います 1)

 今、わたしたちの周囲の言説にはカタカナ語・アルファベットが氾濫しています。医学論文(医学教育関係も含む)にも雑誌の論説にも、カタカナ語が溢れています。それも、その言葉の意味が分からないと論旨が分からないキーワードのことが少なくありません。その言葉の意味が分かる人だけに向かって話されて(書かれて)いるのです。そこには、その言葉が分からない人は「無知」な人だという含意があり、それを感じた人は話された(書かれた)内容そのものに反感を持ったり、無視したりしてしまうしかなくなります(もちろんわかろうと勉強する人もいます)。
 カタカナ語・アルファベットで語ることには、新しいこと(外国でもてはやされていること)を先取りしているという思いの表れのことが少なくないのですから、そこにはやはり啓蒙的姿勢が流れています。そうした言葉を駆使することは、自らを権威付けることにもなります。同時に、そうした言葉を翻訳しないことで、その意味をなんとなく曖昧のままにするという「ごまかし」も生じます。翻訳することにはもちろん思想が入り込むので、あえてそれを避けて読者の理解に任せるという「メリット(?)」もあるのかもしれませんが、それぞれの理解がずれたまま議論が進むことになりがちです(同じ言葉で我田引水の議論が進み、そこで相手の「理解」を非難し合うような事態が生じることが少なくありません)。
 「病院の言葉をわかりやすくする」という本をまとめた人が、その講演の中で何度かリテラシーという言葉を使っていることに戸惑ったことはNo.45で書きました。「リテラシー度が高い人にアンケートをとった」と言っていましたから「読み書き能力」という意味なのでしょうが、「能力」というあからさまな言葉を使うことは「まずい」と思ってのことだったのでしょうか。読み書き能力の低い人のためにこそ、病院の言葉をわかりやすくする意味があるのではないかと思いながら、私は話を聴いていました。他人にリテラシーを求めることは、エネルギーを使うことを求めることです。病気になった人だけでなく、ふだんの生活に追われている人には、そんな余裕が無いことも少なくないのです。「腫瘍には悪性と良性とがあることを患者によく理解させてから」とも言っていたので、そういう「目の高さ」と横文字には親和性があるのでしょう。
 医療の世界も横文字だらけです。
 「生きる希望」と「ひとりじゃない」という思いが患者さんのなかに生まれるように「お互いに支え合い、手探りで一緒に進んでいく」というのがインフォームド・コンセントだと私は思っていますが(No.255No.367に書きました)、それをエンパワーメント(患者が主体性を持ってプロセスに積極的に関われるように働きかける)という言葉で置き換えてほしくはないと思っています。
 「倫理に「正解」はありませんし、患者さんごとに正解は異なります。その不安定さ、答えのでない『宙ぶらりん』の状態に付き合うのが倫理的姿勢です」と私は書いてきましたが(拙著『温かい医療をめざして』)、それをネガティブ・ケイパビリティ(帚木蓬生/朝日選書2017)と言われてしまうと、そんなにカッコよさそうなことではない(もっとオロオロしたことだ)と少しひるんでしまいました。「曖昧耐性」とか「宙ぶらりん力」と訳している人もいますが、「耐える力を身につけさせる」というのと「一緒に耐えることで、その力を一緒に身につけていく」というのとでは、違います。
 レジリエンスという言葉も「困難や脅威に直面している状況に対して、うまく適応できる能力、うまく適応していく過程」と訳してみれば、「うまく適応」することが個人の側に求められている気がしてしまいます(状況を、個人の側に適応させることのほうが重要だという気がしています)。
 アドボガシーが「患者の権利擁護・支援」という意味だとすると、患者は「してもらう」立場にとどめ置かれがちになります。そうせざるをえない場面は確かに少なくないと思いますが、「医療職の仕事はアドボガシーだ」(最近、この言葉を耳にしました)と言い切ってしまうとまずいと思います。ケアは相互に働きかけ合う協働作業なのですし、やっぱり日本語で言わなければ、ね。
 マンスプレイニング(英語: mansplaining、男(man)と説明する(explain)という動詞の非公式な形のsplainingのブレンド語/(男の)見下したような、自信過剰な、そしてしばしば不正確な、または過度に単純化された方法で女性に何かについてコメントしたり、説明したりする態度 2))、「マイクロアグレッション」3)(「女性なのに仕事ができる」「男性なのに女性のように繊細だね」など)、「トーン・ポリシング」(「そんな感情的にならなくても」「そんな言い方では、聴いてもらえないよ」などと、口調や論調を非難することによって発言の妥当性を損なうこと)などという言葉を用いると、批判された人は(上から目線の)横文字に反発してしまい、自分の非から目を逸らしてしまいがちです(そういう人は、日本語で言っても目を逸らそうとしますが)。逆に、横文字で語ることで本質があいまいにされ、指摘する力が弱められてしまうこともありえます 4)
 SDGsという言葉がこのところ流行りですが、どこかカッコ良さそうに感じてしまわせるところが胡散臭いと思っています。「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」という「開発」「成長」という呪縛から逃れないかぎり、未来はないのではないでしょうか 5)。人類が他の生物の生きる権利を侵害し続けることへの問いは回避されているとも思います 6)
 インフォームド・コンセント(IC)、アドバンスケアプラニング(ACP)、Shared decision-makingなどと言っている限り、医療を敬遠したいという気持ちは患者さんから無くならないでしょう 7)。翻訳しても「説明と同意」「人生会議」「共同意思決定」などという訳では、その問題点があいまいになり、底意=悪意(医療者の都合)が隠されてしまっていますし、それはとっくに見透かされているという気がします。(2021.06)

1) 政治の世界でも、「反知性主義」の言葉のほうがしばしば大きな力を持つことは、日本でもアメリカでも目にしているところです。「理論的な正論」「実証された事実」を聞くこと自体を「抑圧」と感じる人は少なくないのでしょう(もっと「気持ちよくなる」言葉を聞きたい、たとえそれが嘘であっても、誰かを差別することになっても、と)。政府による日本学術会議の会員任命拒否という事態に対して、国民からの批判が「盛り上がらない」のも、「良く分からない」からだけではなく、啓蒙的姿勢の代表である学者への「反感」があるのではないかと思います。医者で学者は二重に忌避される存在であり、しかも、そのような医者にいつかは依存せざるをえないことはその感情を増幅します。

2) 女性が男性に向かって料理や家事、育児、差別、政治や経済についてマンスプレイニングのように語ることも見聞きするのですが、ウーマンスプレイニングと言うのでしょうか。

3) デラルド・ウィン・スー『日常生活に埋め込まれた マイクロアグレッション』明石書店2020 本書を読むと、現代日本の状況も全く同じだということを教えられます。医療現場においてのマイクロアグレッションはとても多いし、日本の大きな病院に女性の院長がほとんどいない状況もマイクロアグレッションの積み重ねの結果だと思します。こうしたことについては稿をあらためて考えてみたいと思っています。

4) 「Anderson (2020) "Linguistic Hijacking"でも、"racism"が本来は人種に基づく抑圧構造への加担を指す言葉なのに、抑圧者側が単に『人種で扱いを変えること』くらいに捉え直し、その用法を広めることで、差別の指摘を無効化し、抑圧を強化しているという話が取り上げられ、分析されているんですよね。」(言語哲学者/三木那由他さんのツィッター 2021/2/12) ただし、「パートナー」(夫、妻、配偶者という言葉を避けて)のように、(LGBTの人たち、事実婚の人たちへの)「異端扱い」に抗するために横文字で表現することが当面有効な場合があります。母親学級での講義で、私はいつもパートナーという言葉を用いていました。

5) ヨルゴス・カリス/スーザン・ポールソン/ジャコモ・ダリサ/フェデリコ・デマリア『なぜ、脱成長なのか』NHK出版2021

6) 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社新書2021

7) 「一方的な啓蒙は竹内好風に言えば、賢者かドレイのコトバにならざるをえない。つまり、大衆的ではいられなくなる。」羽根次郎「党は『媒介者』なのか?」現代思想49-6 2021


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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