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No.404 「すみません」

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 研修医オリエンテーションでの医療面接演習のやり取りの中で、患者役の研修医が「すみません。・・・していませんでした」と言ったので、ディスカッションでさっき「○○さんが「すみません」と答えたでしょう」と言ったら、またその研修医が「すみません」と言ってしまいました。私がこのことを取り上げたのは、実際の面接場面でしばしば患者さんが「すみません」という言葉に続けて医者の質問に答えている、そのことの「おかしさ」「危うさ」に研修医たちに気づいてほしいと思ったからです。

 日本語で「すみません」は、どのような場面でも使える潤滑油 1) のような言葉です。患者さんは、本気で「申しわけない」と思っている場合よりも、とりあえず「すみません」という言葉で医者の「攻撃(口撃)」から身を守ろうとしていることの方が多いと思います。
 でも、そのこと自体が、患者と医者との権威勾配の表われです。医者から「責められそう」「非難されそう」という密やかな「恐怖」が抱かれているのです。途を譲ってもらったときの「すみません」、店員に声をかけるときの「すみません」とは違います。「すみません」というありふれた言葉なだけに、医者はその言葉を聞いても権威勾配を感じとりにくい。
 私は、そのような時にいつも、「いえいえ、そんなふうにお思いになることではありませんから」「患者さんが謝ることではありませんよ」などと言っていましたが、なんとなく「「すみません」と言っただけなのに」とかえって戸惑われた方もいるかもしれません。「すみません」という言葉の幅の広さは、そのことへの目配りが必要ですが、それだけに奥深い言葉でもあります。

 患者さんは、いつもきっと過剰に(時には本心に反して)「ありがとうございました」と医者に言っていますが、そのことも、医者は「当然」と思っています。外来診察の終了時にお礼を言う患者さんに対して、医者は「はーい」とか「お大事に」という素っ気ない返事で十分と思っている節があります。
 小児科の外来で「ありがとうございました」と言う子どもに対して、少なくない小児科医が「じゃあね」「バイバイ」と言っていることも、なんだかしっくりきませんでした。日本語には「どういたしまして」というきれいな言葉があるのに。
 しばしば小児科医は(政治家も)「子どもの教育が大事」と言うのですが、それならば、このような時に「美しい」日本語で返事する、子どもにも丁寧な言葉で話す(敬語を含む)、そんな「ささやかなこと」を、丁寧に身をもって伝えるのが教育ではないかと思います。大切なことは、自分の姿でしか伝えられないのです。医学教育にも、そのままあてはまります。

 だからと言って、私は、日本の伝統が「特別に美しい」とか「他国より優れている」などと言うつもりはありません。自分が「きれいだな」「温かいな」と感じる言葉を使うことで、言葉の奥にある心を伝えていきたいだけなのです。「おかげさまで」(No.162に書きました)も、そんな言葉の一つです。そのような伝統を大切にするという意味で、私は「保守的」なのです。この国に生きる人たち(日本国籍の人だけのことではありません)が長い歴史の中で培ってきた心性をだいじに、それを踏まえてつきあわなければ、病気の渦中にある患者さんの気持ちに近づくことはできません。
 同時に、私は、すべての人の「人権=生きている価値」が最大限尊重されなければならないと思っています。そうでなければ、目の前の患者さんを、一人のかけがえない存在として支えることも「護る」こともできません。その意味で、私は「リベラル」と言われる側に居ると思います。中島岳志さん(東京工業大学教授/この大学は近いうちに私の母校と合併するらしい)は「リベラル保守」と自称しておられますが、きっと私もそうだと勝手に思っています。

1) 「すみません」は潤滑油として役立つ言葉ですが、謝罪の言葉としては多くの場合不十分です。「すみません」で謝罪を済ませられるのは、上位の立場の人だけです。「ごめんなさい」も似たようなものです。医者は、そのことにも無自覚です。(2023.04)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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