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No.321 outcomeという陥穽

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 「採用試験の面接は、はじめの数秒で決まる」という「神話」があります。数秒か否かはともかく、第一印象が結果を大きく左右するということについては、研修医採用試験で1200人以上の学生を面接してきた私も同感です。
 「もやい直し」も、はじめて患者さんと出会った瞬間からていねいに付き合ってきた人にしかできません(患者さんの方が諦めて、「まあ許すしかないか」と思うのは「もやい直し」ではありません)。信頼関係は、出会いの一瞬にかかっているのです。
 医学教育学会大会のシンポジウム「共用試験OSCE10年を考える」で、「医学生は変わったか」と問われたシンポジストが「挨拶ができるようになったことは確かだ」と答えたことに対して、「それだけなのか」と言いたげな笑いが会場に広がったというエピソードはNo.262で書きました。会場の笑いは、失笑か嘲笑のようでした。その時のシンポジストも、少し口ごもりながら発言していました。あの時、どうしてシンポジストは、堂々と胸を張って「挨拶ができるようになったんですよ。これで日本の医療は変わっていきます。それだけのエネルギーを費やすのに値するものです」と言えなかったのだろうと今でも私は考え続けています。「医師にとっては小さな一歩だけれど、医療にとっては大きな一歩だ」と言えれば、素敵だったのにと思います。その場でそのような発言をせずに、後になってその思いを医学教育誌に書いた自分に対しても忸怩たる思いを抱き続けています。
 シンポジストたちは「あいさつができるようになったこと」は、成果としては些か「物足りない」ものと感じていたのでしょうし、聴衆の人たちも同じような感覚だったのでしょう。それでは、その人たちにとって「語るに値する成果」とは何だったのでしょうか。成果主義の人事考課でもそうですが、私たちはつい目に見える、もっともらしい成果ばかりが注目されてしまいます。最近の医学教育の世界ではoutcomeという言葉が流行りです。outcome based educationとかoutcome重視の指導医養成講習会という言葉も喧伝されるようになりました。そこには、目に見えるoutcome、もっともらしいoutcomeを語らなければならないという強迫感に寄り添ってきます。もっともらしい成果をはっきりと呈示できないと、うまくいっていない気がしてしまいがちです。大学の先生たちは大変だなと思います。
 シンポジウムを聞いていて、私は、多くの人たちに医療現場がよく見えていないのではないかと感じてしまいました。医師が患者さんより先に挨拶し、自己紹介することで、これまで医者と患者との間にあった壁に「扉が開いた」と感じた患者さんも少なくないはずです。「挨拶」「お礼」「お詫び」がきちんと言えれば、人とのつきあいは深まり、患者-医師関係は変わっていきます。その変化を主導するのは患者さんです。その変化を信じることができなければ、口ごもり、失笑するしかなくなります。

 定量可能なoutcomeは、自分の見える範囲で設定されるしかありません。自分の目の高さ、自分の視野の及ぶ範囲で、限られた自分の視力から自分が「良い」と評価し得ることしか設定しようがありません。短い時間軸で考えていくと、こじんまりとしたoutcomeしか語りようがなくなります。How toやチェックリストで評価できることが中心になってしまいがちです。
 でも、医療の現場での成果は短時間では見えにくく、また働く人の心の内、そして日々の患者さんとの関わりの中に生きる成果は見えにくいのです。自分の生きている間に見られるoutcomeなど、たかが知れています。若い人たちが作り出す未来を信じて、彼らに「賭けて」、自分の視界を超えたところに向かって、自分の思いを投げかける、受け手の力を信じて自分の思いを発信しつづけることが、教育です。
 もっとも、シンポジストたちにあまり自信満々に話されるのも怖いし、たった10年程度の新しい試みなのですから、成果について「おそるおそる」控えめに語る姿勢の方が健全だという気もしてはいますが。
 それにしても、そもそもoutcomeなどという横文字を使ってなにかが「わかった」気になってしまわないように心していたい。(2019.04)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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