No.299 不安と不満
コラム目次へ 外来の廊下を歩いていると、付き添っている女性(たいていは奥さんなのでしょう)を大声で怒鳴っている高齢の男性をときどき見かけます。「だから年寄りは・・・」「だから団塊の世代は・・・」「だから男は・・・」と言われることも仕方ないという気がして、同年代の人間として少しいたたまれなくなります。これまでずっとそのような関係で過ごしてこられた「だけ」のことかもしれませんが(そうだとしたら、このような人種は時と共にだんだん少なくなっていきそうです)、もともと病気になると人は誰でも怒りっぽくなります。病気になることで大きな不安に包まれます。未来が閉ざされてしまいます。年齢や病のために、それまで出来ていたことが出来なくなることの喪失感は、人の足元を脅かします。年を取るということそのことだけで、プライドが傷ついてしまうこともあります。誰もが「老い」「病」を心穏やかに受け入れられるわけではありません。心穏やかに受け入れられる人のことを「美談」のように語ってしまうことは、好ましいことではないと私は思います。
「不安は、不満や不快より深い。だから、表面にあらわれてくるのは不満である」とどこかで読みました。病院では、いろいろ「不満」を訴える患者さんがいます。不満をうまく言葉にまとめることが出来ない時には、怒鳴るしかなくなります。黙っている人は、もっと大きな不安を抱えていることでしょう。自分の心の深い闇の部分を他人に晒すことは不愉快です。闇を見ることは、自分にとっても危いことですから目を逸らすようにします。それ以前に、闇をうまく言葉にまとめることができません。結局人は不満の声をあげるしかなくなります。
医療者からみれば「厄介な患者」ですが、誰もが病むことの「混沌」を制御できるわけではないでしょうし、「制御してあたりまえ」と思うのは医療者の傲慢です。医療者は誰もがその不満に応えようとします。でも、かろうじて言葉として表された不満に一生懸命応えられるだけでは不安は和らがないので、患者さんはもっと不満を言い続けることになります。不安を感じ取ってもらえないという思いが不満を増幅します。不満や不快の奥の不安に応え(支え)なければ不満はとどまらず、医療者には「文句ばかり言う人」という評価だけが残ります。あるいは、不満の奥に不安があることを医療者は感じるからこそ、その不安とつきあうことを回避するために不満への対応に専念するということもあるのかもしれません。
医療の場では、しばしば羞恥の念を抱かされる処置を受けることがあり、それもまた怒りの原因となります。「恥ずかしいと怒りは表裏なのかもしれません」(漫画「看護助手のナナちゃん」)。怒りを和らげようと説明したり弁解したりしても、怒りは和らぎません。「恥ずかしさ」に気づいてくれないことへの怒りが増幅してしまいますが、「恥ずかしさ」に気づかれることも不愉快です。
「つらさ」「さみしさ」「心細さ」「孤独」「恥ずかしさ」は、とりあえずは怒りで補償されるしかないのかもしれません。そのように医療者が「覚悟」を決めれば、ずいぶん関係は違ってきそうです。
怒りは助けてくれる人を求める悲鳴でもあるはずです。それでも患者さんは、怒りの声をあげるまでに相当我慢しているつもりなのですが、そのことは医療者には見えません。時に、ほんの「ささいな」ことで患者さんが突然怒り出し、医療者にはその患者さんがクレーマーにしか見えないことがあります。そんなとき、医療者のささいな言動が「最後の一藁」だったのかもしれないのです。らくだの背中に藁を積めるだけ積んでいった場合、遂にはごく軽い一本の藁を追加することがダメ押しとなってらくだの背骨が折れてしまうことがある、というたとえです。物事には限界、限度があり、一つ一つは些細なものでも積み重なり、度を越せば破滅を引き起こします。忍耐強い人の場合、そのぶんだけ怒りは大きくなってしまうかもしれません。ともかく誰かに怒りをぶつけるしかありません。身近にいる人が格好の標的であり、それは配偶者や子どもといった血縁者、そして看護師です。自分の命綱を握っている医者にぶつけることは、ためらいます。それなのに「医者にぶつけるのはよほどのことなのだろう」とは、医者は思わないものです。そんな患者さんの怒りに応えることから始まるつきあいがあるはずなのに、大声を聞いたとたん「業務妨害だ」と警察に連絡しようと思う医師も少なくないことが残念です。
「何かのことで生きがいをみうしなうような状況にあるひとは、大ていの場合、孤独の中で『自己そのもの』と相対することを余儀なくされると思われる。しかもその自己とは、生存目標をうしない、統一原理をうしなった存在であったから、これほど無力でみじめなものはない。ただ、おどおどして不安にみち、いたずらに過去をかえりみて悔いや怨恨の思いにうもれている。こういう状況では、心に奥深くひそんでいた破壊的なもの、原始的なものも、ほしいままに浮かび上がって来て、ひとを自暴自棄に追いやる。」「生きがい喪失状態にはかならず不安が伴う。」 (神谷美恵子「生きがいについて」みすず書房1966)
「いま身にふりかかっていることがうまく捉えられないから、ことがらを心の内にうまくマッピングできない。だから、相手との距離を測ることも出来ない。そこにマナーを求めるのは酷というものである。」(鷲田清一「『自由』のすきま」角川学芸出版2014)
ある医療市民運動の代表が「賢い患者」という書名の本を近々出版されるようです。きっと良いことが書かれていると思うのですが、私は「賢い患者」「良い患者」という言葉が苦手です。「まあ、おりこうさんね」「良い子ね」「良い学生」「良い社会人」「良い老人」というような、当然その対極には「バカ」「悪い」「不良」が控えている評価的な言葉を、病気になった時にまで患者は言われなければならないのでしょうか。つらい状況にあるのに、「賢く」「良く」あるための努力まで求められることは「残酷」なことではないでしょうか。患者のほうからこのような言葉を言わなければ良い患者-医療者関係が作れないとしたら、そのこと自体がおかしいという気がします。医療者には「良い患者」は「医療者に都合よい患者」でしかありません。
「バカな患者」「悪い患者」ではいけないでしょうか。怒ることで辛うじて自分を保っている人の居場所が「賢い患者」という言葉によってますます狭くなり、医療者にはそのことがますます見えなくなってしまうそうです。「悪い患者」にみえる人ときちんとつきあうことは、医療の隘路を開く一つの有効な手立てだと思います。「『バカ』で何が悪い?」「悪い患者でなにが悪い?」と私は言いたい。「ボク、アホやからわからへん」と言い合えるところから生まれるつきあいのほうが絶対に面白そうです。せめて、この「賢い」が、医療の枠組みに取り込まれることに抗うためのclever(ずる賢い)であってほしい(cleverはもっと良い意味で使われることの方が多いそうですが)。(2018.06)