No.297 見る日本語
コラム目次へ ある病院での講演後の懇親会で、「自分はあえて『お待たせしました』とは言わないようにしている」と言う医師がおられました。「わざとらしい感じがするし、誰にでも言っているのだろうと患者さんは思うだろうから」とのことでした。同席した別の医師は「やっぱり、言うほうが良いと思うよ」と言っておられましたが、こんなふうに考えておられる医師の存在も貴重なことだと思いました。
とはいえ、「わざとらしく感じられるのではないか」と気になるのは、言っている人が「わざとらしい」と思っているからではないでしょうか。「申しわけないな」「心細い思いで待っていただろうな」と気になってしかたなければ、やっぱりなにか言葉が出てしまいそうです。「わざとらしい」と感じている間は、そのような言葉を言わないほうが良いかもしれません。OSCEで主訴を言ったとたん「それは大変でしたね」「つらかったでしょうね」と言うことに、模擬患者さんだけでなく当の学生もシラケているのは「わざとらしさ」の底が見えるからです。
「誰にでも言っていると思われるのではないか」というのも同じです。「形だけだ」「機械と変わらないな」とご自分が感じておられるのでしょう。当の患者さん向けの一言を添えれば、「誰にでも」ということにはなりません。「初めてのご来院ですね」「今日は○○時に来ていただいているのですね」「もう1週間たちましたね」「先日拝見した医師ではなくて申しわけありませんが」というような言葉を添えれば、「あなただけへの言葉」になります。「『話す』とは『気配りする』ということである」と佐伯胖さんは言っています(「わかり方の探究」小学館2004)。
相手の人は言葉だけを聞いているわけではないはずです。「わざとらしい」「どうせ誰にでも言っている」と患者さんが感じるとしたら、それはその雰囲気が医療者の全身からにじみ出ているからです。
「手話にはいろんな表現があるし、すごく楽しいんですけど、健聴者の世界はすごくつまらなく感じました。それは言葉でしかない。言葉はいじるんだけど、表現力を感じなかったんです。顔の表情とか、身体全体の表現といったものです。聞く日本語と見る日本語の違いといったらいいんでしょうか。」(中村恵以子「Codaに目覚める 1)」『ろう文化』青土社2000所収)
ですから「お待たせしました」と言わなくとも、相手の人への思いがにじみ出ていればそれで十分だともいえるでしょうが、そのように言ってしまうと言葉の過小評価になってしまいます。言葉には、他のものには代えがたい言葉の力があります。
「面接とは面接時間以外の23時間(患者のなかで)はたらいているものである」(H.S.サリヴァン)という言葉を、中井久夫「統合失調症をほどく」(ラグーナ出版2016)で知りました。このことは精神科に限ったことではないと思います。医療者の話を聞いた後、患者さんはそこで受けた印象をもとに、医療者の話を反芻し、自分の「構え」を立て直そうとします。面接を終えた後の患者さんの心の中で、「聞いた言葉」も「見た言葉」も熟成していくのです。熟成してほどよく発酵するか、熟成がうまくいかずに腐敗してしまうかは、あるていどは患者さんの責任でもありますが、熟成に必要な適温(雰囲気)や時間を医療者が用意できるか否かに大きくかかっているのだと思います。コミュニケーション教育で、こうしたことが伝えられると良いのですが。(2018.05)
1) コーダ(Coda,Children of Deaf Adults)=ろう者の親を持つ聴者のこと。日本語と日本手話のバイリンガル。