No.415 自己決定(1) 「自分の意志」という錯覚
コラム目次へ 患者さんは医療の主人公です。でも、それは自律/自己決定という言葉に押し込められることとは違います。
「自分の意思」などというもの自体が錯覚です。
自分の考えは、暮らしている社会・集団/周囲の人々の規範的な考えに「支配」されています。自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられて」います。自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもありません。
私たちがことばを用いる限り、そのつど自分の属する言語共同体の価値観を承認し、強化します。「私」の起源は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部」にはありません。
「「意志の自立」などよりも、「目的それ自体としての人間存在」という考え方のほうが、われわれの生き方を考えるうえで、よりいっそうアクチュアルな意義をもった思想だといえるかもしれない。「目的それ自体としての人間存在」という考え方は、(消極的な意味での)自由一般を、各人の権利として擁護するさいの議論の根拠になっている。」(笹沢豊『自分の頭で考える倫理』ちくま新書2000)
「自己決定や自律をふりかざすような生命倫理は、ある意味で、近代思想のもっとも表面的な部分での申し子とも言える。」(安藤泰至「『いのちの思想』を掘り起こす」岩波書店2011)
「力は、からだの重さを、大地や他人にすっかりゆだねることができた時、結果として抜けている。これ以外に力を抜くことはできません」(精神科医/浜田晋の言葉 竹内敏晴『思想する「からだ」』晶文社2001)
先日、次のような文章を読んで、「え、いまごろそんなこと言っているの?」と思ってしまいました。
「それぞれの社会環境や人間関係の影響を受けざるを得ない個人を前提とする概念」として「関係的自律」ということが主張されている。・・・自律の基盤は本質的に社会的・関係的である。・・・自律や自己決定に関する能力や価値観は自分の制御外の環境要因に左右されざるをえず、環境要因は否定的・抑圧的に働く危険性さえある」(石田安実「自己決定は誰もが可能か?」『医学哲学 医学倫理』41号2023)
ふつうの人たちは誰でも知っていることです。「学問って、ふつうの人が誰でもずっと前から知っていることを難しい言葉でいうものなんだね」と、ある学者の祖母が言ったという話を読んだことがあります(だからと言って、難しい言葉で語ることに意味がないということではないと思いますが)。
環境要因が否定的・抑圧的に働くことを(ことさらに)無視しての自己決定/自己責任についての議論は、「ためにする」議論なのではないでしょうか。
日下 隼人