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No.370 ケアは文化そのもの

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 「ケアとキュアという言葉はしばしば二項対立的に語られがちですが、もうそろそろこのような語り方をやめても良いのではないでしょうか。キュアは医者のしていること・医学的な治療を意味して使われているようですが、ケアは病者を支えようとする私たち医療者と病者とのかかわり全体のことなのであって、キュアはその大きなケアの一部分に過ぎないのです。
 ケアはナースがしていることと同じではありませんし、ナースだけがすることでもありません。病者と接する人は、その関わりを通して、それぞれの仕方で誰もがケアを行いうるのです。掃除のおばさんが、隣のベッドの人が、服薬指導に来た薬剤師が、採血に来た検査技師が、病者をケアしていることは珍しいことではありません。医療者のしていることは自動的にケアであるわけではありませんし、病者は、医療者であるというだけで医療者のことをケアする人として認知するわけでもありません。ケアは『する』ものではなく『生まれる』ものです。ケアは、医療者が一方的に行うものではなく、病者と医療者とのつきあいの積み重ねから生まれる、あるいはその積み重ねそのものなのであり、ケアとは病者と私たち医療者とのこの共同作業のことです。ケアは一方的なものではなく、この共同作業に関わる人たちがお互いに『ケアし』『ケアされる』関係なのですから、病者が医療者をこの共同作業の相手として認めなければ、ケアは生まれません。」と私がこのコラムで書いたのはNo38(一部改変)ですが、それからずいぶん時が経ち、少しずつ同じような意味の言葉を目にするようになりました(同じような思いの人が増えてきて、うれしい)。

 何らかの形で誰か(人だけとは限りません)を支えるという関わり(ケア)をしていない人はいません。ケアとはそれに関わる人たちの生き方そのものです。その人のケアの根底にあるのは、その人の文化です(その人がこれまでの人生で耕してきたものです)。「文化は、クライエントと臨床側の双方に(複数)あり、その相互作用で生まれるものを考え、むしろ治療者自身の文化により注意を払うほうが、文化概念のダイナミズムが生きると思う」(北中淳子 座談会「来るべき治癒へ―ケアとキュアの交差域」臨床心理学 増刊 『治療は文化である』金剛出版2020)ある国で行われているケアは、その国の文化そのものです。その国の文化の質は、ケアの質にあらわれていると思います。
 キャロル・ギリガンの『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』が日本で出たのは1986年のことです。「他人を傷つけたくない」という責任と心くばりからの「対人関係の調和」(L.コールバーグ『道徳性の発達と道徳教育』では、道徳性の6つの発達段階の3段階目に位置づけられている)を重視する彼女の主張 1) は、「男女の違い」や「女性のアイデンティティ」の問題としてよりも、「対人関係の調和」を重視するこの国の文化と親和性があり、それゆえこの本を契機に「ケアの倫理」が語られるようになったのではないかと思います 2)
 「力を持つ者が、無力あるいは、自分より弱い弱者に対して、いかに暴力に訴えないように振る舞うのか。これが、ケアの倫理の中心にあり、〈他者を傷つけないこと〉〈危害を避けること〉がその倫理の中心的な価値である」と岡野八代さんは言っています。(『戦争に抗するケアの倫理と平和の構想』岩波書店2015)

 「脆弱性を認識するというのは、上から目線で“助けてやる”のではなく、自分たちのなかにある弱さを引き受けて“共感する”という横臥者の態度である。ヴァージニア・ウルフは『病気になるということ』というエッセイで直立人と横臥者の二項対立を意識していた」(小川公代「ケアの倫理とエンパワメント3 〈他者〉への暴力と弱さの倫理」群像76-3 2021)という文章を読んで、武蔵野赤十字病院の研修医オリエンテーションでの「入院体験」についての感想文を思い出しました。
 「大部屋のベッドに寝ると、思ったより視線が低くなると感じた。私たちは何気なく『今日はいい天気ですね』などと声をかけることがあるが、患者さんから見えている景色は私たちがベッドサイドに立って見る景色とは全く違っているのだろう。視線が低くなることで周りを囲むカーテンが強い存在感をもって目に入るし、不安な気持ちをもって入院している方にとってはそれを強くさせる原因にもなり得ると感じた。また、たった一枚隔てただけの空間に全くの他人がいるということを意識する機会も多かった(実際、隣の入院患者の方からカーテンを手で持ち上げて話しかけられた)」(No.150で取り上げました)。この視点は、「誰かの立場を想像すること、誰かの身になることは、白紙の上では難しい。でも、その誰かをとりまいている環境を再現すると、ぐっと優しくなる。実際にその誰かのいる場所に立ち、その人と同じ姿勢をとる。あまりにも簡単な方法だけれど、それは思いがけない気づきを生むのである」(細馬宏通『介護するからだ』シリーズ ケアをひらく 医学書院2016)に通じています。(2021.05)

1) 「つまり、女性は道徳問題を権利や規則の問題としてではなく、むしろ人間関係における思いやりと責任の問題として考えているのです。」「他人が必要としていることを感じたり、他人の世話をする責任を引き受けたりすることによって、女性は他人の声に注意を向け、自分の判断に他人の視点を含みこんでいるのです。・・・一見、明らかに散漫な、混乱したようにみえる判断は、・・・女性の道徳的な強みである人間関係や責任に過剰なほど気を遣うことと分かちがたく結びついているのです。」キャロル・ギリガン『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店 「女性」に限らず「ケアする人」とはつねにこのような人のことだと思う。

2) ケアは、まさにそこから生まれるものであるけれども、「世間」という言葉が有形無形の圧力となり「他人に迷惑をかけない」ことが美徳とされるこの国では、「対人関係の調和」という言葉には危うさが付きまとう。他人に「身の程(分)をわきまえた」言動を求める(「○○のくせに」「○○らしく」)動き=相手を「下位の位置」に押し留めようとする動きにも、差別/排除を受けている人たちの「怒り」「悔しさ」からの言動への批判(「謙虚」と「礼儀」を一方的に求める「そんなにことを荒立てなくとも」「もっと相手を気遣った言い方があるのに」「このような言動のお蔭で、同じ障碍者が迷惑する」というような言葉)にもつながりやすい※。「対人関係の調和」を大切にする人の「好意」に胡坐をかいて、差別者の位置を保っている人は少なくない。
 “共感する”文化は「横臥する」姿勢のような生活感なくしては育たないが、それのみでは非理性的な「実感信仰」への拝跪にもなりかねないことを見失わないようにしたい。その意味で、コールバーグの第4段階「法と秩序志向」第5段階「社会契約的遵法志向」第6段階「普遍的な倫理的原理志向」の視座も欠かせない(これらと第3段階とはベクトルが違うと思う)。

※ 駅での移動介助をしてもらえなかったことを訴えた人について、非難が相次いだ。その非難に反論するいくつかのツイッターから。
 「身体障害者の外出時に周囲に感謝しろ、というのは、労働者が有給休暇を取るのに、理由を求めたり、使用者に感謝しなければならない、職場に迷惑をかけるな、という類の言説にも繋がってる気がする。」
 「人権は『思いやり』でも『優しさ』でも『道徳』でも『政治的立場』でもありません。普遍的な権利であり、なんの対価もなく全員に備わってるものであり、我々の社会が最も尊重すべき概念です。」
 「『健常者はどんなに性格が悪かろうが傲慢だろうが自由に駅で乗り降りできるのに、障碍者は同じ自由を求めただけで第三者からいちいち態度をチェックされ他者へ感謝しろだの謙虚さが足りないなどとお説教を受けないといけない』という状況の理不尽さに気づけない人はバリアフリーを語っちゃだめですよ。」


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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