No.327 サイエンス
コラム目次へ ある教授が退官講義で「次世代の臨床医へのメッセージとして『臨床における疑問を持って、研究にも取り組むことで良い臨床医になる』との考えを力説。『サイエンスをきちんとやった先生は必ず臨床が良くできる。臨床が良くできる先生はサイエンスがしたくなる。なぜなら医療はアートではなくサイエンスだから』と強調した」という記事を読みました。
「医療はアートとサイエンス」だという言葉は私も苦手です。「アート」は「芸術」ではなく「技術、技巧」「手仕事」「技能」という意味なのでしょうが、ならば、わざわざ「アート」などと言わなくともよいのに、と私はずっと思ってきました。
それはそれとして、この退官講義には理性信仰があり、ここで言われている「サイエンス」に社会科学や人文科学は含まれていなさそうです。サイエンスをきちんとするということがインパクトスコアでしか考えられていないという保障はありません。社会科学・人文科学抜きの自然科学だけの医療を、私は信じることができません。
「サイエンスをきちんとやった先生は必ず臨床が良くできる。臨床が良くできる先生はサイエンスがしたくなる」という言葉は願望と自己肯定化からのものとしか感じられないのですが、根拠となる数字も事例も明示されていないのですから「科学的」な発言ではありません。そのような人は間違いなく存在しますが、そうでなければ「良い臨床医として認めない」という若い医師たちへのプレッシャーとしての言葉でもあります。
「臨床がよくできる」というのは、研究者からの視点なのでしょうか、患者からの視点なのでしょうか。患者からの視点からであれば、多くの医師を見てきて「サイエンスをきちんとやったからといって、その医者が必ず臨床がよくできるとは限らない」と私は思います(印象ですから、科学的な発言ではありません)。そうでない人はサイエンスを「きちんと」していないのだという反論がありうるのですが、そうするとずいぶん多くの医者が振り落とされてしまいます。
最近送られてきた私の母校の広報誌に「“産学×医工”連携で未来に新たな価値を」と、大学と大企業との連携が「誇らしげに」書かれています。相互の人事交流も積極的に図られ、医師は企業のマネジメントなどを学んでいるようです。私が大学生のころには「産学協同反対」というスローガンが少なからず掲げられたのですが、医学はもともと実学ですからそのころから大学と産業界の連携は避けられないところでした。ただ、このように誇らしげに語らなければならないのは、そこに大学の生き残りがかかっているからなのでしょう。まして、トップ型スーパーグローバル大学の指定を受けた大学ですから、みごとに国の政策に乗っています(だからこの指定は胡散臭いのです)。
以下はある大学教授(私の母校ではありません)のブログからの引用です。
「大学の新自由主義化とは、平たく言ってしまえば、これまで国が丸抱えで運営していた国立大学の業務を市場化することである。市場化するとは大きく二つのことを意味する。それは大学の世界を『市場のように』運営すること。つまり競争原理や成果主義を持ちこみ、運営や意志決定プロセスに一般企業的な原理を持ちこむこと。そしてもう一つの意味は、大学に『民間』の参入を促すこと、もしくは言い方を変えると大学業務を民間に切り売りすることである。・・・国は、大学に定常的に交付していた運営費交付金を原則として年1%ずつ削減し、それに代えて『競争的資金』を獲得することを推奨したり、中期計画を策定してその達成度を査定したりといったことによって、それを推し進めようとしてきた。後者は要するに、『改革』をより多く達成した大学に高い評価と資金を与えようということである。その『改革』の中にはいわゆる『ガバナンス改革』がある。2015年の国立大学法人法の改正は、教授会の議決権を大幅に削減するなどして、学長の権限を拡大するという『ガバナンス改革』(その内実は、上意下達以外の何物でもない)を進めたという意味で、決定的に重要だった。」この通りのことが母校でも進行しています。
産学協同が医療の世界では避けられないとはいえ、サイエンス(自然科学)至上主義から成果を出すことが求められていく大学で、どのような医師が育つのでしょうか。国のありよう、企業のありよう、科学のありように異を唱えることはもとより、違和感を覚えるだけでも、そこに留まっては居られなくなるでしょう。そのような人は「サイエンスをきちんと」していないと言われかねません。
もともとこの社会の中で恵まれた階層にいたからこそ医学部に入ることができ、もともと勉強が好きな人たちなのですから、システムの中を忠実に生きていくでしょう。自分が恵まれていることを享受できていることが、苦しい生活を余儀なくされている多くの人の存在の上に成り立ってことなど気にも留めずに(328に続きます)、サイエンス競争に邁進しがちです。大学に留まって研究を続けていけばいくほど、国家の論理・資本の論理に自分が取り込まれていることが見えなくなり、疑問をいだくこともなくなってしまうでしょう。医療のシステムという枠に自分の心と体を進んで合わせていきますから、医療の根本的なありようを問う批判的精神は育たなくなります。サイエンスが様々な実利(地位、名声、経済)に結びついているのですから、この社会が変わらないことを願うばかりです。既存の利権を守ることを最優先していることは、「医学の進歩のため」「たくさんの患者のため」という言葉によって、「見なかった」ことにされます。医療を批判する人(しばしば患者)は敵に見えますから、医者はそのような人・制度・情報を攻撃対象にしがちです。そこでは、サイエンス(サイエンスに無知な者への蔑視を含む)と医師の個人的献身(という思い込み)が攻撃の武器となりがちです(ツイッターに現れる医師から患者へのヘイト発言を見るたびに、そう思います)。
この形は、50年余り前の医学部闘争の中で私たちが批判した封建的な医局講座制が、現代化・管理社会化されていきついた姿です。医師は、よりスマートな管理システムに、よりがんじがらめにからめとられています。新しい専門医制度にもそのことはあてはまります。当時予想されていたものとは少しは違う形ですが、管理社会化は着実に進行し続けてきていたのです。「国を癒す」大医など生まれるべくもありません。(2019.07)