No.305 広島の「ばっちゃん」
コラム目次へ 広島の「ばっちゃん」=中本忠子(ちかこ)さんのことは、2017年1月のNHKスペシャルで取り上げられました。元保護司の中本さんは、毎日市営住宅の自宅で、多い時には3 升のお米を炊き、小学生から21歳までの少年たち3〜10人に無償で食事を提供しています。「広島のマザー・テレサ」とも呼ばれている81歳の中本さんは30年以上にわたり、200人以上の子供たちを「できたての食事」で支え続けてきました。
その番組の最後のところで「どうして続けているのか」と問われた中本さんは、「子どもから直接『助けて』と言われたことの無い人にはわからないだろう」と答えます。
「その経験がない人に、何を言ったってわかりゃせん・・・・・電気もガスも止められた家の子。暴力団の家族の仕事、母の薬物注射を手伝わされる子。そんな『重たい』環境にいるから、来ても『よう来たの』としか言わない 1)。お腹(なか)いっぱいになればいずれ『聞きたくないことまで』話しだすから」(鷲田清一「折々のことば」1085 朝日新聞2018.4.20)
医療者ほど「助けて」と直接面と向かって言われ続けている職業は少ないと思います。にもかかわらず、きっと私たちはその言葉を受け止められていない。「助けて」という言葉を、医療者は当たり前のこととして聞き流してしまいがちです(言わない人のことを「おかしな人」とさえ思いがちです)。「助けて」と言っている人への医療者の言葉の多くは、面と向かっている「その人」に対してではなく、「抽象的な人(人一般)」に向けられたものなのではないでしょうか。そこではコミュニケーションは生まれません。医療者は、その人の「顔」を見ていないのです。自分に迫ってくる「顔」(人生)を見つめ、言葉を正面から受け止めない限り、直接「助けて」と言われても「わからない」のです。
E・レヴィナスは、すべての人間は苦しむ者・死すべき者であり、その他者の助けを叫ぶ声なき声に応答することが「責任の引き受け」である、「他者の苦しみを共に背負え」という命令は「無始源のかなた」から来ると言っています。レヴィナスの言葉が指し示していることを、中本さんは黙って実践しています。そのような人こそがこの国の「誇り」ですが、同時にこのような人が存在せざるを得ないことはこの国が「美しく、愛されるべき国」とはほど遠い状態であることの証拠でもあります。(2018.09)
1) 話題のNHKテレビドラマ「透明なゆりかご」第6回「いつか望んだとき」では、「中絶手術を受けるためには、女性は本名を名乗らなくていい、パートナーの同意書も必須ではない、支払いも本当は求めたくない、つきそい一人がいればよい」とする老産科医の夫婦が描かれます。山奥の看板も無い診療所の医師夫婦が、来所した少女に何も聞かずに明るく迎え「またお出で」と帰したのは、20年前、説教をして帰した高校生が帰り道で自死したからでした。「何にも聞かずに手術してあげて、キレイにして帰してあげれば、死ぬようなことはなかったね」と医師夫婦。20年ひたすらその十字架を背負って人工妊娠中絶を引き受けてきたこの夫婦の姿が、私には中本さんと重なって見えました。
「患者さんのプライバシーにどこまで立ち入って良いかわからない」という若い医師や学生が少なくないということは、No.260で書きました。そのような人たちに「医療は患者の究極のプライバシーと向き合う仕事だから、敢然と向き合ってほしい」と言うだけでは、「何も聞かない」こと、「いずれ話し出すまで待つ」こともまた「敢然と向き合うことだ」ということは伝わらないでしょう。コミュニケーション教育と言うからには、それくらいのことは伝えられなければ。