No.346 copresence
コラム目次へ 医療の場では、患者さんも医療者も、それぞれが「こっちを見て」「私の話を聞いて」と思っています。でも、「自分の顔を見て、信じてほしい」「医学の説明を聞いてほしい」と思う医療者と、「自分の人生を見てほしい」「(医学の言葉には入りきらない)自分の人生についての思いを聴いてほしい」と思う患者さんとの間には大きな溝があります。溝をはさんでそれぞれの思いはすれ違うしかないので、お互いの居心地は悪くなるばかりです。あるツイッターに「配慮というのは、理解してから配慮するものではなくて、理解できないからこそ先んじて配慮するものなのだ。だから配慮の前にそこにはまず自分にはわからないものに対する畏敬の念、あるいは戸惑いがないといけない」とありました。「患者理解」という言葉 1) がありますが、患者さんに対する畏敬の念が無ければ患者さんのことを理解することも、「溝を超える」こともできないでしょう。患者さんのことを「見る」こともその言葉を「聴く」ことも、畏敬の念をもって「傍らにいつづける」なしにはできないことではないでしょうか。
25年前(もう25年も経ってしまった!)の神戸の地震の時、神戸大学精神科教授であった中井久夫さんが、駆け付けたボランティア医師たちに対して「しばらくはここでぶらぶらしていてください。いてくれるだけでスタッフの消耗が防げるから」と言ったというエピソードが『心の傷を癒すということ』という本(安克昌著、角川ソフィア文庫2001)に書かれていました。
この話は、東日本大震災直後の2011年3月の大阪大学卒業式で、時の鷲田清一総長も式辞で話しておられます(No.159でも引用しました)。
「わたしは中井久夫先生から一つの言葉を教わりました。copresence という言葉です。中井先生はこの言葉を『いてくれること』と訳し、他人の copresence が被災の現場でいかに重い意味をもつかを説かれました。被災直後、中井先生は地方の医師たちに救援の要請をなさいました。全国から多くの医師が駆けつけたのですが、中井先生はじめ神戸大学のスタッフが患者さんにかかりっきりで、応援団になかなか交替のチャンスが、回ってこない。そのうちあまりに長い待機時間に小さな不満が上がりはじめたとき、中井先生はその医師たちに集まってもらい、『予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる』と語りはじめました。そして、『その場にいてくれる』という、ただそれだけのことが自分たちのチームにとってどれほどポジティヴな意味をもつかを訴えられたのです。
じっと見守ってくれている人がいるということが、人をいかに勇気づけるかということは、被災の現場だけでなく、たとえば子どもがはじめて幼稚園に行ったときの情景にも見られることです。人にはこのように、だれかから見守られているということを意識することによってはじめて、庇護者から離れ、自分の行動をなしうるということがあるのです。」
安さんは同著の最後で「世界は心的外傷に満ちている。“心の傷を癒すということ”は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである」と書いています(ジャック・ラカンも同じようなことを書いているようです)。先日、NHK土曜ドラマで書名と同名の「心の傷を癒すということ」が放映されました。39歳の若さで亡くなった安さんを演じたのは柄本佑でしたが、その最終回で彼は「心のケアって何かわかった だれもひとりぼっちにさせへんてことや」と言います。「自分の人生を見てほしい」「言葉に耳を傾けてほしい」「じっと見守っていてほしい」という思いに応えるというのは、そういうことなのではないでしょうか。新興感染症が私たちみんなに大きな心的外傷を生みだしている今という時だからこそ、安さんの言葉が身に沁みます。(2020.04)
1) この言葉は看護の世界では日常的に用いられ、医者の世界ではほとんど聞かれません。「理解しよう」としてくれる姿勢を好ましいと考えるか、「理解しよう」と迫ってくる姿勢を鬱陶しいと感じるか、その両方か。それは人によって違うでしょうが、だからといって理解してみることに挑みもしないで良いわけはありません。
日下 隼人