No.301 死に方を選ぶ?(2)
コラム目次へ 治療効果が乏しいにもかかわらず膨大な医療費のかかる治療が行われることについての批判的検討は、医療者の責任において行われなければなりません。当の患者さんに、経済効果までも考慮して自分が受ける医療を選ばせるというのは筋違いです(医療者の盾にするような形で患者を巻き込まないでほしい)。それは、終末期のことに限られることではありません。不適切な医療がいっぱいあることは確かです。「儲け主義」と言われても仕方ないという気がする、「濃厚な」検査や治療もたくさん見聞きします。けれども、不適切な医療には過少な医療もあるのに、不適切な医療を「過剰な医療」と同義のよう語り、医療費の問題と絡ませることは「目くらまし」です。その結果、医療を「控える」ことばかりが正義になりがちです。膨大な医療費について語られることはあっても、現に行われている「診療の手控え」については余り語られていません。現状のままでは将来「高度な」あるいは「積極的な」治療ができなくなるという「予測」に基づいて、現在行うことのできる医療さえも今の患者さんに手控えられるとしたら、私たち「団塊の世代」が迎える近未来が(私たちより少しだけ年上の)高齢者の現在を浸食していることになります。どのような治療も選べるような恵まれた状況にある人の語る「将来につけをまわさない」という言葉によって、もともと選択の幅が狭い人が治療を控える以外の選択肢が閉ざされる事態が生じます。
目の前の困っている人への治療を手控えて、未来があるのでしょうか。「高齢者に医療費をかけすぎている」ことを理由にして、その医療を手控えることで「浮いた」お金を若い人たちの支援に回すような政策が行われることは、現在の政治を見ている限り期待できません。高齢者への医療を「薄く」することの次に控えているのは、若い人たちへの医療もその「薄い」レベルにとどめ、そのことでさらに高齢者の医療を「薄く」するという循環なのでしょう。
「無駄な」「延命治療」「生命維持装置」といった、悪意を潜ませた言葉が巧妙に人の心を誘導します 1)。担当医が「無駄だ」と言えば多くの人はそれに従うしかなくなってしまいます。
「延命」という言葉が、どうして否定的な意味合いでしか語られなくなったのでしょう。「呼吸補助装置」や「昇圧剤」の使用が、どうして「生命維持装置」といった言葉で語られなければならないのでしょう。どうしてほんの数日、たった1回きりのこの世に生きる時間を延ばすことが否定的に語られてしまうのでしょう 2)。手を尽くしても「ほんの数日」しか命が伸ばせないのだとしたら、「ほんの数日」くらい命を長引かせることに手を尽くしても良いではないですか。
死は何歳の人にとっても不条理なものだし、人間が生きていることだってそう自然なことではないのですから、「延命治療」と言われることだって悪いとは言えないでしょう。その人が生きる時間を1秒でも長くしようとする努力に意味がないなどと言いきれるでしょうか。最後の瞬間に近づく時は、周囲の人がその人と心を深く通わせる最後の、そしておそらくは最も濃密な機会なのですから、早めに見切りをつけてしまうような形でその“時”を軽んじると医療全体が軽くなってしまいます。
「尊厳死」というような言葉、「人間らしい生」というような言葉が、そもそも危ういのです 3)。ある死に方を「尊厳だ」と言うことは、尊厳でない死に方(生き方)があるということを同時に意味しています。どうして、どのような人間の生き方も死に方も、とにかく人間の生死についてはすべてが尊厳だというところから出発してはいけないのでしょうか。人間はその知恵を用いて、病いという「自然」に抵抗してきました。科学技術が自然を作りかえ傷つけることで人間のいのちを広げてきたのが人間の歴史なのですから、集中治療室に横たわって、人間の歴史の一員としてその自然科学の成果としての現在の医療を引き受けるようなことが「人間的でない」ということにはなりません。裸になって寝かされ、意識がなくて、いっぱい管が入っていても、周囲の人と心を通わせることはできるのですから、それが尊厳であるかどうかは、心を通わせようとする側の人間の問題なのです。 (No.15-17でも書きました)
「治る見込みもなく、意識もないのに、たくさん管に繋がれて生きる、人間の尊厳を欠いた悲惨な最期」と思うのは、周囲の人間です。「こんな形では生きたくない」という周囲の人の思いは、その人と心を通わせることを諦める時にしか生まれないのではないでしょうか。そしてその人が“こんな形”を拒んだとき、「こんな形であっても」その人と心を通わせたいという何人かの人の思いを拒むことにもなります。このような状態では尊厳がないと考えることと、「津久井やまゆり園」での事件を起こした「論理」との間に境界線を引くことはできないのです 4)。
心を通わせる時間と場所を大切にし、その“時”を豊かなものにすることのお手伝いをするという意味で、尊厳な生の最後の時間と空間を私たちは十分に尊重できているでしょうか。医師は「どうせあと3日」と思うかもしれませんが、病者の家族にとってはその3日はかけがえのないものです。3日という時間は、病者と心を通わせるためには限りなく豊かな時間です。医療者は、それを妨げる人間にも保障する人間にもなりうるのです。「無駄」か否かは動物としての時間のことではありませんし、「無駄か否か」を判断するのは医療者ではないはずです。けれども、「(ほんの少ししか時間を伸ばさない、効果の乏しい治療によって生まれる)この時間は私たちにとって貴重なもので、無駄ではない」と言える家族(親しい人)は決して多くはありません。
「死はいかにも自己的に見える。だが、死の淵に立っているものはもはや他者のことしか考えない。日常性が他者のまなざしの交錯の中に位置づけられている日本人にとっては、とくにそうだ」(安永寿延「日常性の弁証法」筑摩書房1972)周囲の人の思いに応えて死んでいくことが、人間のこの世での最後の仕事なのではないでしょうか。「早く死ね」「1分1秒でも長く生きていてほしい」というような周囲の人の思いに応えることが、最期の仕事です。「延命は遺される人たちの満足のためのものでしかない」と言われることがあります。でもそのことを、最期の時まで誰かの役に立つことができたと考えることはできないでしょうか。
どこで、どのような形で、死を迎えようとそのことは変わりません。「病院でしかできない」ことではありませんし、「自宅でなければ」ということでもありません。遺された人にとっては、どのような選択をしても「あれでよかったのか」という思い(悔い)が残り、そして(それゆえに)選択した途を「あれで良かったのだ」と自分に納得させていくしかないのです。その作業(喪の作業)が少しでも緩やかにできる(soft landingできる)ような時空・ケアを提供することが終末期の医療です。時を経ても遺された人の中に悔いをできるだけ少なくするようにと心を配られた「あわい」の時を提供するのがターミナル・ケアです。
病院医療を論い「在宅でなければ」と思う医療者と、在宅が今一つ信じられない(在宅にしたために大変だった経験をもってしまった)病院の医療者との狭間に患者がいるとしたら、その事態がhappyなものではないことだけは確かです。
ほんとうにそのようになった時のことは事前には誰もわからないのですから、当人が「悲惨だ」と思っているかどうかもわかりません。最終段階の治療を具体的に思い描けるのは医療者や似たような状況で身内を亡くした人くらいです 5) が、それでも現実は予想とずれます。どのような状況になりどのような治療がありうるのかはわからないまま「意志」を表明しているのですから、実際の場面になって「思った通りだ」と思うかもしれませんし、「こんなはずじゃなかった」と思うかもしれません。もうそのときには「意志の変更」もできなくなっています 6)。「本人の意に沿わない医療行為がなされることを避ける」ことは「本人の望む医療行為を回避する(拒絶する)」道と背中合わせです。ほとんどの人にとって最終段階の詳細は分からず、自分にはどのような事態がおきるかもわからず、しょせん人生は「なるようになる」「なるようにしかならない」「成り行きに任せるしかない」要素のほうが大きいのです。人生も死も、こちらの思い通り・予定通りにはいかない(から面白い)。そのようなことを含み込むACPでなければ、ACPは患者さんの人生に近づけないのではないかと思います。(2018.07)
1) 「言語によって少なからず思考や認識に影響が与えられる」という「サピア=ウォーフの仮説」には批判も多いようですが、言葉の使用は間違いなく思想性・歴史性・政治性を帯びていて、人の心を左右します。例えば、ボライトネス理論での「ポジティブ・ポライトネス」「ネガティブ・ボライトネス」という言葉でも、「馴れ馴れしいボライトネス」と「敬意を込めたボライトネス」と訳すのと「親しみのあるボライトネス」と「よそよそしいボライトネス」と訳すのとでは全く別様に見えてしまいます。どのような言葉(あるいは「一連の言葉の連なり」)を語るにしても、そこには政治性・思想性が貼りついています(無意識に言葉を選んでいるときにこそ、政治性が入っています)。「権威者」が立派な言葉を交えて語ることにはもちろん政治性がつきまといます(メタレベルでも)。
2) 小泉義之『病いの哲学』ちくま新書 2006 から
・死に淫する哲学は、末期の病人のことを、死ぬ以外に為す術のない、死ぬしかない人間と決め付けている。治療不可能と宣告しさえすれば、善をなす他者の手によって死を与えること以外に何をなすべきことも考えるべきこともないと決め付けている。だからこそ、死ぬことに意味を賦与したがる。
・死ぬ権利に対比されているのは、生きる権利ではなく、権利を喪失したとみなされる生、すなわち、ただの生、低次元の生、生き延びるに値しない生である。だから、死ぬ権利の行使を主張することは、必ずや、そんな生を死へと廃棄することを含意する。
・私は、どうして人間を死なせたがるのか、どうして自ら死にたがるのか、さっぱりわからない。死へ向かう人間のために、どうして少しばかり待てないのか・・・。
・飢えた子どもを前にしたら食物を与えるべきなのは、・・・権利云々以前のことであろう。同様に、末期の病人を前にしたら、食物や薬物を摂取できなくなっているなら、それに代わるものを与えるべきなのは、正当化以前のことであろう。
3) 「無理な医療を控えて、穏やかな最期を」というような言葉に、私たちは惑わされがちです。「無理な医療を控える」ことも「穏やかな最期」も望ましいことですが、この二つは別のことです。医療は常に「穏やかな最期」を目指すものであり、「穏やかな最期」のために行われる医療は、どのようなものであっても「無理な」医療ではないのです。「穏やか」とは「静かにベッドに横たわっている」ことと同じではありません。
悪性腫瘍になった写真家の幡野広志さんは、そのブログで「商品を販売や説明するWEBサイトは分かりやすく、末期がんでも完治すると謳い、お子さまのためにと一番弱い弱点を突いて説得してくる。そして薬漬けにされるなどと標準治療の不安を煽り、不安から守ろうとしてくれる。はっきりいうけど、インチキ医療の勧誘は病院で説明される医師の難しい説明よりも、分かりやすくて親身なんですよ。正しい医師の難しくて、正しい説明は悪徳業者の分かりやすい簡単なウソに負ける」と書いています。(「溺れる人に藁をつかませる人」 幡野さんは6月7日NHKクローズアップ現代「“最先端”がん治療トラブル」に出演してこのことを話しておられました)。
牽強付会の謗りを恐れずに言えば、「薬漬けにされるなどと標準治療の不安を煽り、インチキ医療を勧める」ことも「無理な医療を控え、穏やかな最期を勧める」ことも、論の進め方は同じです。目的が違うことは確かでしょうが、そのような論の進め方(「こっちの水は甘いぞ」)で人に「訴える」ことに危うさが伴うことは共通していると思います。
4) 「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。・・・ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在の理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。・・・・現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内には見いだしえず、『他者』のなかにのみみいだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。・・・・大きな眼からみれば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるに違いない。」(神谷美惠子「生きがいについて」みすず書房1966)
何度でもこの文章を引用したい。頼みもしないのにこの世に産み落とされ、希望しないのに生命を奪われる不条理を強いられているのに、その最後のわずかの時間さえ「尊厳」という言葉によって奪われることを「望ましいこと」としなくとも良いと思う。
5) 「私も両親を亡くした時、家族は“その時”になってみないと判断はできないということを痛感しました。」(講演に伺ったある病院の看護師長の言葉)
6) 「患者さん本人と家族、医療従事者とが話し合うプロセス」こそが医療の本質です。「本人の意思は変わる」のは、普通のことです。患者さんの思い(「意志」ではなく「思い」という言葉を使いたい)は日々変わり、自分の状況の変化によって変わり、周囲の人のことばによって変わります。患者さんと医療者とのつきあいを通して患者さんの思いは変わりますが、同時に医療者の思いも変わるはずです。患者さんの変化に応じて自分も少し「右往左往」する覚悟がなければ、患者さんとのつきあいは生まれません(もちろん、芯の無い右往左往からもつきあいは生まれません)。ACPや終末期医療について語る人が、あまり医療者が変わることを語らないこと、あえて言えば「不動の高みから患者さんを、対象として見下ろしている」ような印象のあることが気になっています。