No.341 ACPという「いじめ」
コラム目次へ 「慢性閉塞性肺疾患のような非がん性呼吸器疾患では、がんのように一律的な緩和ケアの考え方が普及していない。○○病院(東京都)呼吸器内科医長らは、非がん性呼吸器疾患患者の緩和ケアに対する意識調査を実施。その結果、入院時には蘇生措置を希望しながら入院中に不要を申し出るケースが多く、同氏は『非がん性呼吸器疾患に対する緩和ケア体制の整備が急務である。・・・非がん性呼吸器疾患治療においても、より早期にACPを取り入れ緩和ケアを普及させることが必要である』と第29回日本呼吸ケア・リハビリテーション学会で述べた。」(「入院中に蘇生措置希望から不要へ 非がん性呼吸器疾患の緩和ケアに対する患者調査」)Medical tribune 2019.12.09
短報なので仕方ないのですが、入院してからどのような診療が行われたのか、医師や看護師からどのような働きかけが行われたのかは書かれていませんでした。「誘導」はいかようにもできそうです。それにしても、「入院中に意思が変わる」という事実から「早期にACPを取り入れ」るという結論が導かれることが私にはわかりませんでした。人の意思が変わるものだというのならば「ACPの早期の導入は慎重に行おう」ということにしかならないのではないでしょうか。不思議です。ここでは「蘇生不要」の選択のほうが「良い」選択だと考えられているのではないでしょうか。「限りない延命医療から、自然な、平穏な死という方向」(広井良典)という言葉の中の、「限りない」1) という言葉に込められた悪意・「自然な」「平穏な」という言葉による目くらましと共通の根があります。同文の中では「キュアはケアの一部である」(私もNo.38、No.205で書きました)という適切な視点が書かれているだけに、いっそう驚いてしまいました。
No.338でも書いたことですが、病気になって混乱し、同時にある種の精神の高揚状態のために、当事者の「意思決定能力」は低下しています。未来は見通せなくなっています。当事者となればさまざまなバイアスが働きます。もともと、医療のことはほとんどわかりません。これから起きる現実のことは予測不能ですし、説明されてもどんなことが起きるのか想像つきません。 (それに付け込んで)親しくしくもない人たちから「さっさと死に方を決めろ」(言い方が優しくても、こう言っています)と迫られます 2)。ACPという言葉は、多くの人にとって初めて耳にする(初めて考えてみる)ものなのに、まるであたりまえのことのように迫ってきます。こうして、病初時の混乱とがんじがらめの状況の中で書いたものが後々つきまとい、それ以降の人生を支配します。こうしたものである限り、ACPはあらたな「いじめ」でしかないと思います。
川島孝一郎さん(仙台往診クリニック)は「ACPではなくAL(Life)Pでなくてはならないはずだ」と言っていますが、現時点では「死に方」の問題として語られる場合が圧倒的に多く、患者さんは死に方を迫られます。「自害せよ」と短刀を突き付けられているかのようです。人生会議という名前で、なぜ生き方ではなく死に方が語られなければならないのでしょうか(No.313, 314でも書きました)。「死に方の事前指示」を「人生会議」と言い換えるのは、「敗戦」を「終戦」と言い換え、「占領軍」を「進駐軍」と言い換えたのと同じ姿勢です。「患者や家族に対し、必要に応じて、アドバンス・ケア・プランニング を含めた意思決定支援を提供できる体制を整備すること」が「がん診療連携拠点病院等の整備」の要件として明記されていますが、そうなれば、医師はその意味について思考停止し(「決まったことだから仕方ない」と居直り)、罪の意識なくこの「いじめ」に加担することになります。
武田砂鉄さんの「『良き例』を欲してはいけない」という文章が現代思想47-12 2019に掲載されていました。
「この五月に祖母が死んだのだが、98歳という年齢を伝えると、もれなく『大往生だったね』と慰める言葉をくれる。その言葉に答えずに黙っていると、『しょうがないよね』オーラがたちまち膨れ上がってくる。『いやでも、まだ生きたかったんじゃないかな』と漏らすと、『いやでも、大往生だよ』と再び返ってくる。」
祖母が死にそうになって(武田さんが当事者になってみて)「アレ、マジでムカつくな」と思い出したのは、雑誌「文学界」での落合陽一と古市憲寿の対談の中での古市の「『最後の一ケ月間 3) の延命治療はやめませんか』と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ケ月は必要ないんじゃないですか、と。順番を追って説明すればたいしたことないはずの話なんだけど、なかなか話が前に進まない」という言葉 4) だったそうです。「祖母は『最後の一か月間』『胃ろうをつくったり』『ベッドでただ眠ったり』しながら過ごしていたが、その一ケ月間は自分たち家族にとって、とても必要な一か月となり、『順番を追って説明すればたいしたことのないはずの話』であるはずもなかった。」
「いざ直面すると、自分にとって、『特に最後の一ケ月』はとても大切なものだった。だからと言って、『だれにとっても大切なものになるから』と宣言するわけではない。・・・高齢化社会の中、迷いが勢いよく削られたものが好まれるようになってきた。橋田壽賀子『安楽死で死なせてください』の帯には『人に迷惑をかける前に死に方とその時期くらい自分で選びたい』という宣言が掲載されていた。危うい宣言、断言である。でも、こっちが流行ってしまう」
「誰も死んだことがない・・・その死を想像して、意味付けして、拡散していくことには慎重にならなければならないが、今、その『死』の周辺で『良き例』の提示が進んでいる。」「祖母にとって、あれが大切な一ケ月だったかはわからない。周辺の家族がそう思いたいだけかもしれない。でも、その一ケ月は、祖母と、その近しい人で慎重に獲得した一ケ月だったとは言える。だから、それを奪おうとする人たちがいれば、ムカつく、という感情をぶつける。子供じみた口調なるけれど、ムカついたのだ。こうして、ちゃんとムカつかないと、『良い例』が次々と押し寄せることになる。とりわけ、メディアにいる人間、意見を表明する人間は、今、そのことに繰り返し自覚的にならなければならないのではないだろうか。」
「良い死に方」についての医師の言説が少なくないこのごろです。その多くは「良心的な」「患者を尊重する」医師です。それでも、「たくさんの死を見てきた」医療者によるその経験からの啓蒙的な言葉が、そんなふうには現場を見たことのないシロウトに投げかけられます 5)。それは「秘めごととしての専門性」に支えられている点で旧来のパターナリズムと本質的には変わるところがないと思います。 (2020.01)
1) 「限りない」って、無限に続くことはあり得ない。たとえ無限に続いたとしても、それが何か悪いことなのだろうか。そこから生じてくる「問題」の解決を、患者の命を短くすること以外の解決法を求めればよいのではないか。
2) 「いまどき延命治療を選ぶ人などいない」と看護師に言われた家族は自分たちがこれから考えようとしていることへの「不当な介入」と感じて、怒った。これは、「多数派の行動を社会規範として示し、それから乖離している人を少数派として意識させるメッセージ」で、行動経済学ではナッジと言われる(大竹文雄『行動経済学の使い方』岩波新書2019)。行動経済学には、このように誘導的に使われる危険性が内包されており(だから政治家も行動心理学を勉強する)、医療に関して言えば患者を医師の思う方向に沿わせるための「言い方」のように書かれているものがあるので、私は苦手である。ここから、社会学で言う「サンクション」=規範を外れた行為に対する制裁の発動に至るのは、あと一歩である。
医療のしていることはすべてが「延命」である。「延命」を否定的な言葉として用いることは医療そのものの否定である。「延命」という言葉を、悪意から守りたい。「命が延びてよかったですね」と言いさえすればよいだけのことである。
3) いつがその「最後の一ケ月」なのかは後になってしかわからないということは、小学生でもわかることのような気がするのだが。
4) 「今、あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる。それって、つらいんじゃないかな? 私達の周りにはね、たくさんの呪いがあるの。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい」(テレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」最終回 百合の言葉) 「その一ケ月は必要ない」と言う人は、その時になって「順を追って説明され(決断を迫られ)る」自分の姿を想像してはいないのだろうか。
5) あげられる実例にはしばしば恣意性が伴う。「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と言うかのように、病院での「悲惨な」死と自宅での「穏やかな」死ばかりが語られるとしたら、どのような死も「穏やかなもの」にすることが責務である医療の責任放棄である。ただ、徳永進さんをはじめ、その責任を全うしようとする姿勢で語ったり書いたりしている医療者も少なくないのだが。
日下 隼人