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No.322 「半日でもいいから長く」

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 「本当にあれだけ強がり言ってて『どれだけ生きるかじゃない、どう生きるかだ』なんて言ってた人間が『もう本当に1年が無理だったら半年でもいい。半年が無理だったら3カ月でもいい』っていうふうに、自分の生きる事についてこだわりが正直にこみ上げてきたんですね。・・・だからもっと自分に正直に・・・生きたいと思うんだったら『俺は死にたくない』っていうことを正直に言葉にしたり自分の行動の中に表してもいいんじゃないかなと思ったんです。・・・こうやって今自分の病気の事をお話ししてますけど・・・そうですね、3年5年ぐらいまではこの『がん』という言葉を耳で聞くことも嫌でしたし、文字で見ることも嫌でした。『なぜなんだ、なぜなんだ』って自分をこう問い詰めるような嫌な重い空気になった時のことを思い出してしまって、前を向いて歩くことができないような気持ちになっちゃう。ですから文字として見ることも嫌でしたし、言葉として聞くことも嫌で・・・。」1) 元NHK解説委員の柳澤秀夫さんが肺癌になった時のことを「徹子の部屋」(2019.1.23)で話していました。
 そんな思いの柳澤さんが、90歳を過ぎて心疾患のために死を間近に意識していた母親の言葉を聞きます。「母は・・・私がそのがんになってまだ治療をしてるところで亡くなったんですけど。ベッドに寝てた母が相当弱ってましたんで・・・、でも、ある日ベッドに横たわって天井を眺めながら『もっと生きたい』って言ったんです。その言葉を聞いた時に、いくつになっても生きてる人間っていうのはこれでいいっていう事は絶対ないんだって。本当に『半日でもいいから長く生きていきたい』って、これがやっぱり人間の正直な姿じゃないかなって・・・。相当覚悟は決めていたのにその言葉聞いた時はやっぱり、う~ん・・・なんとも言えなかったですね。」

 私の恩師の渡辺一衛先生 2)は「問題がかみ合わなくなったら、いつでも具体的、第一義的な地点に戻って考えてみることが必要だ」とし、その第一義的な地点とは「医療とは、病気から逃れて元気になりたいとか、もっと生きたいという、人間ならほぼ共通に持っていると思われる普遍的な要求」に応えることだと書いています(「医療論における2,3の問題」思想の科学1979.2) 3)
 大切なことは、何を考えるにしても「人は半日でもいいから長く生きていきたいのだ」という「具体的、第一義的な地点」から足を離さないということではないでしょうか。こんな簡潔な一言を口に出すことが憚られるような言説がまかり通っている今日の状況こそが異常だと思います。少なくとも私は「人は半日でもいいから長く生きていきたいのだ」というところから足を離している言葉には、信を置くことができない 4)。(2019.05)

1) 自分の病気についての「悪い言葉」に対して耳目を塞ぎたくなる人は少なくないはずです。そのような人に医師が「悪い情報」を伝える時間は拷問のような時間であり、患者さんは少しでも早く終わってほしいと思います。医師の説明にたいして患者さんが「分かりました」を連発するのは、医師の説明から早く逃げ出したい場合も少なくないのかもしれません。医師の言葉をわかりたくはないけれど、「わかった」と言わない限り放免してもらえません。医師としては情報を正確に伝えることが必要ですし、そのために繰り返し説明することが欠かせないのですが、耳目を塞ぎたくなる患者さんの気持ちに波長を合わせなければ情報が伝わることはありえません。

2) 渡辺一衛先生は、2018年8月28日に93歳でお亡くなりになりました。東京医科歯科大学に入学した1967年の6月、雑誌『思想の科学』で「60年代後半・われわれの状況」という文章を読みました。その筆者肩書に東京医科歯科大学勤務と書いてあるのを見た時「事務職員かな」と思ったのですが、「そういえば、あのぼそぼそと(私の大嫌いな)物理の講義をする先生はこんな名前だった」と気づいた時、その落差に驚いてしまいました。でも、物理の講義の後に「『思想の科学』を読みました。もっと話を聴かせてください」と言って教授室に押しかけ、その後学部に進学するまで同級生3人で勉強会をしていただきました(物理ではなく社会学・哲学についてです、もちろん)。学部に進学してからも、医者になってからも、私は少し悩むことがあると市川にある教養部の研究室を訪れ、教えを乞いました。同人誌「方向感覚」は最近までお送りいただいていました。
 理論物理学者としての先生のお仕事は私には全く理解できない世界ですが、社会学・哲学・文学と該博な知識をもっておられることに感嘆するばかりでした。また中国現代史・反体制活動について多くの文章も書いておられた先生は(ある中国研究者が先生の造詣の深さを絶賛していました)、現在の中国の「人権派弁護士」のことを案じておられたことと思います。1960年代後半、学生運動をしている学生が多少なりとも文化大革命に共感する時代にあって、「中国は、いずれは劉-鄧路線(近代化路線)に戻るしか、ありえないんだよ」と言っておられましたし、まだ多くの人がカンボジアの大量虐殺に懐疑的であった時に「あれは多分事実だ」と言っておられました。そうした言葉を通して、どんなときにも冷徹な視力を持つことの重要性を教えていただいたのでした。
 先生はベトナム反戦運動や三里塚闘争救援活動などで中心的活動もしておられました。1967年10月21日に、先生にお願いして私は初めて反戦デモに連れて行っていただいたのですが、それがベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモでした。そこで、小林トミさん(「声なき声の会」主宰)をご紹介いただき、小田実、吉川勇一、日高六郎、鶴見俊輔、鶴見良行、小中陽太郎といった人たちと出会うことになりました(小中さん以外は鬼籍に入られてしまいました)。もともと党派的活動になじめなかった私が、その後ずっと(医者になってからも)反戦市民運動で活動することができたのは、この日があったからこそです。そのデモの時、黙々と歩いておられる先生の姿を見て「オトナだな、あんなふうになりたいな」と思ったことが昨日のことのようです。それでも、「邪馬台国に憑かれた人々」(学陽書房1997)という本をいただいた時には、先生の関心の広さにあらためて驚いてしまいました。

3) 今でも私はたまにこの文章を読み直しています。科学的合理主義を踏まえた上での社会への批判的視点を教えていただいたお蔭で、私は非合理的な反医学の立場をとることはありませんでしたし、同時に医療を変えていきたいという志を見失うこともありませんでした。学会や大学医局に縛られることもその枠の中で「群れる」こともなく(たくさんの人と親しくおつきあいいただき、たくさんお世話にはなりましたが)、肩書を集めることもなく、生きることが出来ました。渡辺先生とNo.295で書いた畑尾先生のお二人との出会いがなければ、間違いなく今の私はありませんでした。心からの感謝を込めて。

4) その意味で、佐々木常雄『がんと向き合い生きていく』(セブン&アイ出版2019)は、心が癒される良書だと思います。佐々木先生はCOMLの辻本好子さん(故人)とも親しく、私はある研修会で講師をご一緒させて戴きました。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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