No.280 暮しに根付いた言葉しか
コラム目次へ 「こんなに説明したのに、わかってもらえない」という嘆きは医療現場でしばしば聞かれますが、それはふつうのおつきあいでも珍しいことではありません。
「こんなに」説明したのが確かだとしても、相手の人にこちらの言うことを受け容れる姿勢がなければ言葉は届きません。仲の悪い人同士ではそうです(というより、そのような関係が「仲が悪い」ということです)。家族や師弟の間でありがちなことですが、上の人は下の人の言うことに耳を貸しません(というより、「耳を貸さない」人が上位の人です)。仲が悪くなくとも、上下の関係でなくとも、相手の話を聞ける態勢ができていなければ、耳を貸すことができません。相手の態勢を無視して言葉を投げかけても、それは大暴投に過ぎません。
ならば、姿勢のある人・こちらを向いている人にだけ話せばよいかというと、少なくとも医療はそうは行きません(社会でそのようにしたら、いきつくところは志を同じくする人たちだけの「カルト集団」の誕生ということになってしまいます) 1)。
ところで、この「こんなに」は、ほんとうに「こんなに」だと確かに言えるでしょうか。説明が通じないのは、こちらの言葉が相手の心に届いていないからなのではないでしょうか。言われていることがどんなに理解できても、そのことばが頭に届くだけでは人は「わかりません」。その人の心の中にストンと落ちた時にはじめて「確かにそうだ」と人は納得します。
言葉が心の中にストンと落ちるためには、まず「この人の言うことなら」と思えなければなりません。話が正しいかどうかではなく、言っている人が聞く人にとってなにか「魅力的」でなければ、心の中には届きません。「自分の言っていることが正しい」「教えてあげる」「自分の言うとおりにすればよい」というような教導的な言葉は、それだけで「魅力」を削いでしまいます。子どもの時から(おとなになっても)そんな教導的な言葉に取り囲まれて私たちは、生きてきています。もう、うんざりです。それに教育的な人の「胡散くささ」を大人になるまでいやというほど見てきていますから、言っている人の「裏」や「下心」が気になってしまいます。教導的な人は魅力的な存在から一番遠いところにいるのです。
講演や文章では思いは届きません(随分講演をさせていただき、本も書いてしまった私が言うのもなんですが)。届くのは生きた言葉です。その言葉も、たくさんの人に話すのでは通じません。「あなたにだけ」語る時にしか通じません。
本気で思っていないことは通じません。その人が本気で心から言っているのか、頭で考えた理屈を言っているだけなのか、職業として「義務的」に言っているだけなのか。相手の頭に話しかけているのか、心に話しかけているのか。そういったことは、絶対に伝わってしまいます。心からの言葉を「聞き流して、無視する」ことは簡単なことではありませんが、頭からの言葉は耳を素通りしてしまいます。
本気で、心から言っているかどうか、一つの判断材料はその人が和語を話しているかどうかだと思います。漢語やカタカナ語は暮らしに根付いた言葉ではありません。暮らしに根付いた言葉で語られなければ、その言葉は心の中にストンと落ちてきません。カタカナ語はもちろん日本語ではありませんが、漢語(四角い言葉・漢字が重なる言葉)も日本語ではありません。漢語には中国から伝わってきた言葉もあるでしょうが、明治維新以後が欧米語圏の言葉を翻訳したものも少なくありません。
柳父章は、「漢語はタテマエ、和語はホンネ」「音読み(漢語)はタテマエ、訓読み(和語)はホンネ」と言っています(「翻訳語成立事情」岩波新書1982) 2)。 タテマエの話だけをいくら重ねても、言葉は通じにくく、語る人の心は信じてもらえません。
カタカナ語には「未来への漠とした志向」があるそうですが(滝浦真人)、「漠とした」ものであり、いかようにも意味が取れる多義的なものであるだけに、内容がぼけてしまいます。医学教育や医療の世界は、そのような言葉で溢れています。次々に横文字が出てくるさまを見ていると、「汲めども尽きぬ泉」を見るような思いと「浜の真砂」を見るような思いが交錯します。「インフォームド・コンセントが通じない」「インフォームド・コンセントを丁寧にしてほしい」というような言葉の応酬では、日本の医療はタテマエにとどまり続けるしかないのです。プロフェッショナルという言葉も同じです。
こちらの言葉が「通じない」と感じた時に、「自分が心から言っているだろうか」と自問する人はとても少ないようです。もちろん、言葉を尽くしても自分の思いが相手に伝わらないことはあります。「相手が悪い」としか思えないことも少なくありません。それでも、自分の思いが伝わらないときや自分の言葉で相手が変わってくれないとき、その原因を自分の「発信」の仕方の至らなさに求め続ける姿勢があると思います 3)。そのような姿勢を崩さないことで生まれてくるものがあるはずです。
人がそれぞれ大切に思うものは違いますし、人の心は簡単に動くものではありません。相手が、こちらの言葉を受けとめる態勢になるまでは、受け止めてもらえません。その態勢になるまで「待つ」(「手を拱いて」ということではありません)ことは、コミュニケーションそのものです。「そんなものさ」と居直って、でもいつかどこかで届くこともあるかもしれないからと語り続ける「気軽さ」を同時に持ち合わせることが、コミュニケーションには欠かせないと思います。
人の心に届くのは、届けようという意思を断念して(はじめからそのようなつもりがなく)、独り言のような、自分に言い聞かせるような言葉、自分の弱さに耐えるような言葉だけではないでしょうか。だから、教育的な言葉や医療者の説明は届きにくいのかもしれません。(2017.09)
1) 「『コミュニティ』のあいだ、別の物語を共有し・他の物語を聴く気がない『共同性』間の関係をどう作るか」奥村隆「社会はどこにあるか」ミネルヴァ書房2017
「私たちが正しい道徳的判断をしたければ、ある行為から影響を受けた人をコミュニケーションする社会の一員と認め、その人に発言することを許し、他の人たちが当人の声を聴き、その立場に共感的に配慮する必要がある。人類の最も不道徳なふるまい、たとえば、奴隷制や人種差別、民族の虐殺などは、ある人びとをコミュニケーションから排除することからはじまっている。したがって、道徳的配慮の境界とは、コミュニケーションの境界にほかならないのである。」河野哲也「善意は実在するか」講談社 2007
2) 柳父章は同書で翻訳語として、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」をあげて、解説しています。私には「社会性」が身に付かず、「恋愛」がうまくできず、「権利」や「自由」についてうまく語れないのは、そのためなのでしょうか(強弁ですね)。
武蔵野赤十字病院の理念である「愛の病院」という言葉が、レディメイドの服のようにほんの少し身体にフィットしないような感じがするのも、そのためなのでしょう(私は服も靴もレディメイドのものしか持っていませんが)。
3) 竹内敏晴「ことばが劈かれるとき」思想の科学社1975 を読み直してみました。
「話しかけるとは、相手の体に話すこと、他のだれでもないまさにその人に話すのだ(一部改変)。」
「相手にこえが届くとはどういうことか。こえで相手にふれるのだ。『こえで肩をたたくつもりで話せ!』・・・相手の肩に話しかける。うなじでも手でもいい。」
「(この人の声は)かん高いこえで論理的にきわめて明晰に話すが、胸から上だけに響いているこえだから、論理的説得力は持つが、感覚的あるいは感情的に他人を納得させる力は乏しい・・・。」
ちなみに、竹内さんの晩年に生まれたお嬢さんは現在、新国立劇場バレエ団のプリンシパルです(米沢唯さん)。この本が座右の書であるという彼女の踊りには竹内さんの言葉が息づいている気がします。