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No.373 「症例」

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 数年前、母校の小児科学教室の同窓会で「医療倫理とコミュニケーション」について講演しました。最後のほうのスライドで、貧困、南北格差、731部隊や生体解剖の歴史、原発、動物実験で殺される動物の命などにも目を向ける医師であってほしいとお話ししたのですが、私の講演の直前に若い女性医師がマウスを使った実験の成果を得々と語るのを聞いて、少し(ほんのすこしだけ)「悪いこと」をしてしまったような気がしました。
 世界で、少なくとも毎年1億1500万匹以上の動物が実験に使われているとのことです(きっともっとずっと多い)。85%は齧歯類です(霊長類は0.15%、ウサギが1.72%)。それも、通常の繁殖で生まれた健康な動物よりも、遺伝子工学により作ることが可能になったさまざまの疾患モデルのマウス(イヌやブタなども)、特定の正常な機能を持たない(例えば免疫不全~種類はとても多い)マウス、遺伝子欠損や遺伝子異常を発現しているマウスなどが、おびただしく生産され「消費」されています(「○○症候群特異的な△△遺伝子変異を挿入したマウスを作成することに成功し・・・」というような文章に出会います)。実験動物を用いた研究のお蔭で今日の医学の「進歩」が支えられ、私たちが恩恵を受けているのは確かですが、もともと生きることのできない欠損/異常を抱えて「産まれさせられた」生命というものをどう考えればよいのでしょうか。
 「人間だから」というだけの理由で、このような生命を作ることが許されるのでしょうか。人間が食べるための動物を繁殖させ飼育することが「人間だから」許されるのか、というのも同じことです。それほどの犠牲を、他の動物種に強いて生き延びる権利を人類は持っていると、心から言えるでしょうか。どこの医学部にも実験動物の慰霊碑があり、法要を行っているところもありますが、それは人間の自己満足ですらないでしょう。このようなことが許されているのですから、遺伝子操作により「改良」される人間を作ることなど、倫理性など問われようもありません(病気の発症予防・治療になるのですから)。人間の場合だけ問うとしたら、それは実験動物で全く問わないことの裏返しです。
 田上孝一さんは、動物解放論について「人間のみならず動物にも内在的価値(それが何の役に立たなくてもただそれだけで価値があるような存在)を見いだし、人間同様に動物の内在的価値を損なわないようにすべしという理論である。・・・動物の権利を守るということは、・・・動物の利用それ自体を認めないということであり、動物の利用それ自体を廃絶するということである」と言っています(『はじめての動物倫理学』集英社新書2021)。製作される実験動物とは、はじめから「内在的価値」が否定された存在です。でも、医学の世界では実験動物の「生」に思いを巡らせるよりも、研究に興味を惹かれる人のほうが圧倒的に多いのです。少なくとも、そういった論文を読まないわけにはいきません(私だって読んでいます)。実験動物から得られた成果についての論文を読み続けていくことが、どこか深層で「生への畏敬の念」をすり減らしていくということはないでしょうか(「点滴石(医師)を穿つ」です) 1) 2)。それは、患者さんをどこか自分の操作するもの(=症例)として見る習性に繋がっているかもしれないのです。
 先日オンラインセミナーを受講したところ、「面白い症例」と何度も繰り返す講師がいて、少し鼻白んでしまいました。医者にとって「面白い」症例とは、「不幸な」「つらい」人生を生きている患者さんのことです。そして、「面白い症例」にワクワクする人は「面白くない症例」には関心が薄くなりがちです。聞いているうちに、以前ある患者さんの検査をお願いした先生から「興味深い症例なので、逃がさないようにしてください」と言われたことや、いつも「救急外来や入院で診療に悩む症例がいたら、相談してください」と言っていた先輩医師のことを思い出しました(私は「症例」じゃなくて「患者さん」でしょ、と心の中でいつも思っていました)。「症例」という言葉には、患者さんへの畏敬の念をすり減らしていく力があると思います。

 「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるわけでもない。 唯一生き残るのは、変化できる者である」というダーウィンが言ったことにされている言葉を、畑尾先生(No.295)はよくワークショップで言っておられました。最近では、憲法を変えたくて仕方のない政党の宣伝でも用いられました。でも、ダーウィンは生物の進化に「目的」はなく、それは偶然の「結果」にすぎないと考えており、たまたま突然変異によって親と違う形質の子が生まれ、その個体が淘汰されずに生き残ることによって、進化が起こると考えていたとのことです。動物は変化に対応するために遺伝子を変異させるわけではなく、遺伝子のミスコピーによって起こる突然変異で得られた形質がたまたま環境に合っていたために、生き残って子孫を残し、突然変異によって生じた特徴が次の世代に受け継がれるのです。それを何世代も重ねていくと、やがて祖先との違いが大きくなり、もともとの祖先種とは交配できなくなった時点で、「新種」の生物として独立します。したがって、生物がまるで自ら目的や方向性を持って進化してきたように見えるのは、結果論にすぎません 3)
 「畏敬の念をすり減らしてしまう」ことも、変化です。「変わる」ことに価値を認めるのは、「君の言っていることはもう古い」という言葉が、相手を否定するために日本人には有効である(No.298)ということに通じます。「どう変わるか」抜きに「変わる」ことを肯定的に語ることには、反知性主義に陥る危険があります。表面的な変化は必要だとしても、「変わってはいけない“芯”」を守ることの方がずっとだいじです。「古代魚“ガ―”は進化しないことで1億年生き延びることができた」(NHKテレビ「ダーウィンが来た」2019.12.8)そうです。いや、「生き延びる」ことを危うくするかもしれないけれど、それでも「変わらない」生き方を選ぶという選択もありえます。そのような途を選び取ろうとする人への敬意を失わないようにしたい(たとえ、その選択が私には肯定的に受け止められないものであっても)。

 先日、「動物実験に馴染めなくて、研究生活を早々に止めた」と書いている医師がいて、少しホッとしました。(2021.07)

1) 「それらの作品は、人間の動物に対する暴力的な扱いが、人間の人間に対する暴力の根源にあることを描いている」「理性を持つ《人間》は、理性を持たない《動物》よりも優位に立つ。このような考え方が、社会のさまざまな領域で新たな支配関係を構築するとともに、また他国の侵略や植民地支配を正当化することに繋がった」村上克尚『動物の声、他者の声』新曜社2017

2) 「医学の発展に役立つということで動物を犠牲にすることが正当化されるならば、同じことで人間を犠牲にすることも正当化されます」浅野幸治『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ナカニシヤ出版2021

3) 「わたしたちが動物に対していだく考えの多くは,『最も適した』動物だけが生き残るという思い込みから生まれる類いのものだ。このような考えは、傷つきやすさや弱さ、そして相互依存と言った経験の価値と、その自然さ=当然さすらをも否定するものだ。障害が生じるとき、私たちは『自然が己が道を決める』と決めつけ、障害を持った動物が至る自然な帰結とは死だと考えてしまう。こうして、今を生きる障害を持った動物たちのことを、逸脱しているばかりか不自然な存在でもあると見なしてしまうのだ。」スナウラ・テイラー『荷を引く獣たち 動物の解放と障害者の解放』洛北出版2020


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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