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No.376 経験というフィルター

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 「子供のいない小児科医(看護師)はだめだ」「一人前じゃない」という言葉を昔はよく耳にしました(今でも、言っている人はいると思います)。これもマイクロアグレッションですが、それはそれとしてこの言葉は正しいのでしょうか。
 「私もこのたび母となった。妊娠出産を経験したことで・・・・確かなのは妊娠出産の経験をする以前の私のようなカウンセリングはもうできないということである。過去の看護体験と切り離して遺伝カウンセリングが行えないことと同様に、良くも悪くも実体験は価値観というフィルターに反映され、ときに共感的理解 1)を阻害する要因にもなりかねない。経験が認定カウンセラーとしての身の肥やしとなるか否かは、その内容や出来事の大小にかかわらず、自己と向き合う姿勢を保つこと、そしてその気づきを与えてくれる他者を尊重する心が大切であると感じる」(伊藤志帆「認定遺伝カウンセラーと私」遺伝子医学Vol9 No.1 2019)。
 きっと、そうなのです。自分の子供と暮らしてはじめて見えてくることは、確かにあります。でも、それはどこまでいっても自分の経験でしかなく(自分の人生の枠に制約されたものでしかなく)、それがフィルターとなって目の前の〈親-子〉の姿を見えにくくしてしまいます。「私の場合はこうだったから・・・」などという言葉には人を傷つける力が十分ありますし(「私の場合もそうだった」といった言葉が人を力づける場合も少なくありません)、自分の経験と合わない言動を「信じられない」「非常識」などと言ったりすればそれは最悪です(抑圧であり、マンスプレイニングです)。「子どもと暮らして見えるようになったこと」が一つ増えるたびに子どもがいない時に見えていたことが一つずつ見えなくなってしまっているということを、何かを経験して知識が身についたり視野が広がったりしたと感じられた時には必ずいくつかの知識を失い視野の一端が見えなくなっているということを、忘れてはいけないとこのカウンセラーは書いているのだと思います。
 『はてしない物語』(M.エンデ)で、ファンタージェンを旅するバスチアン少年は、人間の国に帰ろうとします。その彼にアイゥオーラおばさまが諭します。「ぼうやは一つの望みから次の望みへと、長い旅をして、そのつど望みがみたされてゆきました。一つ望みがかなえられると新しい望みが生まれました。・・・ところが、ぼうやは、望みが一つかなえられるたびに、自分の元いた世界の記憶を、一つずつなくしていったのです。と言っても、ぼうやはもう帰る気持ちはなかったので、気にもかけませんでした。だから次から次へと望みを持って進むうちに、とうとう記憶のほとんどを失ってしまいました。・・・残されたわずかな記憶までなくなってしまう危険が出てきたのです。もしそんなことになれば、ぼうやはもう自分の世界に帰れなくなるのです。」
 この「自分の世界」とは、普通の人の暮らしの世界です。専門家としての医療者の「成長」とは、普通の人の暮らしの世界から「遠ざかる」ことでもあるのです。「子どものいる」小児科医や看護師になった人は、「自分に子どもがいたらどう思うのだろう」「自分に子どもがいないからわからないのではないだろうか」「自分に子どもがいたら、もっと良いことが言えるかもしれないのに」という思いで患者さんに接することは、もうできません。「ためらい」「不安」の上での「おろおろした」2) 付き合いだからこそ、人を支える力があるのではないでしょうか。そして、そのような「ためらい」や「不安」こそが自分の人生を見つめる糧です。「自己と向き合う姿勢、そしてその気づきを与えてくれる他者を尊重する心」(つまり、自分と他者とは違うのだという自覚)を保つことは、経験して「しまった」人間に求められる最低限の矜持だと思います。
 医療の世界は否応なく「経験がものを言う」世界です。経験してみなければ分からないことがたくさんありますし、何歳になっても初めての経験を次々にします。でも、私自身を振り返ってみると、医者になって10年くらいまでの患者さんとの付き合いは、それ以降の付き合いとは「深さ」(より深く、かつ深くなるほど広がっていく深さ)が違っていたと思います(もちろん、若い時のほうが深かった)。コミュニケーションで言えば、上手なコミュニケーションと一生懸命なコミュニケーションとの違いでしょうか。「ためらい」や「不安」に支えられて初めて可能になる深いコミュニケーションには、滑らかなコミュニケーションではたどりつけないのです。若い医師や看護師のなかにも早くコミュニケーション上手になってしまう人が少なくないのですが、その「上手さ」はコミュニケーションを浅いものに留めてしまう危険性があります。それは、コミュニケーション教育の「浅さ」の反映なのかもしれません。こうしたことがわかるようになるのも経験のなせる業なのですが。(2021.08)

1) 「情動的共感(シンパシー)」が「認知的共感(エンパシー)」の目を曇らせてしまうということでしょうか。

2) 医療者教育の中では、この「おろおろする」ことほど否定的に指導されることはないかもしれません。それは、指導者自身に「おろおろする」状態にとどまり続けることへの余裕と自信が無いからなのでしょう。
 「ああ、あなた、悶え加勢しよるとね。そのままでよかですよ。苦しい人がいるときに、その人の前をただおろおろとおろおろと、行ったり来たり、それだけで、その人の心は少し楽になる。そのままでよかとですよ」石牟礼道子の言葉(永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』ころから2018所収)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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