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No.390 境界線

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 このところ、開業医が患者に殺される事件が立て続きに起きてしまいました。そこまで至らなくても、医師が危険な場面にであうことは、現場では珍しくないとのことです。
 個々の事件については詳細が分からないので何も言えませんが、「患者さんとの良好なコミュニケーションで温かい医療を」と言い続けてきた身として、その思いで頑張るとかえって危険な事態に至ることがあるのではないかという声が聞こえるような気がしてしまいます。

 拙著『温かい医療をめざして』では以下のようなことを書いてきました。
 「『(患者さんが)どうしてわからないかなあ』という、この『どうして』という問いを、『どうして自分には、この人のわからない理由がわからないのだろう』と自分に向けて考えると、見えてくる世界が広がります」
 「患者さんの言動は、どのように不合理なものであっても、医療者に『敵対』するものであっても、その根底には病むことへの不安や恐れがうずまいています。そう考えて患者さんを見つめてみると、今その人が生きている世界の見え方が違ってきます」
 「患者さんの中には他人を攻撃することが『病』の症状である人たちも確かにいます。でも、人は誰でも(私たちも)いろいろな状況から『モンスター』になりうるのです。『病む』という事態は、そのようなことが起こりやすい状況です。病的ではない普通の人を『モンスター』に変えてしまったのが、医療者の言動でないという保障はないのです。話を聞いてもらえない経験や希望に全然応えてもらえない経験をした人は、誰でも大きな声を出すしかありません。患者さんは、『もうこれ以上は我慢できない』と、堪忍袋の緒が切れてしまったのかもしれません。」
 「『苦手だ』『困った人だ』と感じた患者さんのことは『無視する』『軽く扱う』、『その人の診察を避ける』『その人のところに行くのを避ける』という対応になりがちです。そんなときこそ、普通の場合の『倍くらい』丁寧に付き合うようにします。誰とでも同じように付き合っているつもりでいても、『苦手な』感情は体から沁み出してしまいます。好き嫌いの感情はかならず態度や雰囲気に表われます。患者さんはその感情を絶対に感じとり、医療者に対して不快感をかかえた言動をとりますから、悪循環が始まります。こちらが、普通の場合の『倍くらい』丁寧につきあうように心がけたときに、やっと当の患者さんからは『(この医療者は)誰にでも同じように接する人だ』と認定してもらえるのです。そのように付き合うと、私たちにも患者さんは違って見えてきます。」
 もちろん、次のようなことも書いてはいます。
 「どんなことを言われても、どんな仕打ちを受けても医療者は我慢して耐えるべきだ、ということでは全くありません。毅然と対処しなければならないときに、躊躇すべきではありません。」「暴言の連発・暴行、土下座などの強要は犯罪ですから、警察の協力を求めるべきです。ただし、きつい言葉を一言訊いたとたんに『暴言だ』と言ったり、肩をふれられただけで『暴行だ』というような対応は事態を悪化させるだけです。その意味でも、一人で対応しないことです。」
 このような状況だからこそ、丁寧なコミュニケーションが大切だということは言い続けたい。でも、何が何でも突き進むべきだということではありません。どうしても自分(たち)だけの努力だけでは「足らない」「不十分」「危険」な場合が、残念ながらこの世界ではあります。
 「良いコミュニケーションが医療者の身を護る」ことには限界があります。これだけきちんとしたコミュニケーションを重ねても通じないのならば、患者さんの側に、こちらの対応では解決しきれない大きな問題があるのではないかと考えることも必要なのです。できるだけの丁寧な関係を作ろうとすることは、そこを越えたら前進を止める(引き返す)ための境界線を見極めるためにも欠かせないのです。相手の人への敬意を欠かさず、その人の気持ちをその人の心に沿ってみようとする姿勢を踏まえての丁寧なコミュニケーション・丁寧なかかわりこそが境界線を明らかにします。無理して境界線を越えるのでもなく、患者さんをその境界線の向こうに放擲するのでもなく、その境界線の向こうで適切なケア(社会的ケアが主になるかもしれません)を受けられるような環境の用意のお手伝いをすることは『温かい医療』のうちです。 (繰り返しになりますが、今回の事例そのものに何か問題があると言っているのではありません)。

 まだ私が現役の時に、ある医師の診療内容についてクレームをもらったことがあります。当院を受診後、別の病院に行ったら全く違って重い病気で入院になったというのです。が、その内容に少しつじつまの合わないところがあり、また当該の医師の対応が不適切とも思えませんでしたので、当の病院に事情を問い合わせたところ、クレームに書かれたような事実はありませんでした。代理ミュンヒハウゼン症候群 1) を疑い、地区担当の保健師に経過観察を依頼したのですが、その後身体的虐待も出現しました。こちらが丁寧に付き合っていなければ、あるいは丁寧につきあっていてもクレームを「変な人のおかしな訴え、無視!」などとあしらっていれば、虐待は見えぬままになるところでした。丁寧な付き合いは、やはり欠かせないのです。

1) 代理ミュンヒハウゼン症候群(代理によるミュンヒハウゼン症候群、MSBP)とは、子どもを病気にさせ、献身的に面倒をみることで自分の心の安定をはかる行為。虐待の特殊型とされている。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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