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No.244 誠意と真実

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 久しぶりにお茶の水にある「山の上ホテル」で食事をする機会がありました。私の卒業した大学至近のホテルということもあり、若いころメイン・ダイニングによく通い、そこでフランス料理の手ほどきを受けた思い出深いホテルです(今、私があの頃の自分をみかけたら、生意気な若造だと絶対に思うでしょう)。私はサービスについて知りたくて、いろいろなホテルを巡りラウンジでお茶を飲みながらホテルスタッフの言動を観察していたものです、今も。
 閑話休題、山の上ホテル創業者の吉田俊男は「もし、人が他人に与へられる最高のものが誠意と真実であるなら、ホテルがお客様に差し上げられるものもそれ以外にはないはずだ」と言っています。この「ホテル」は、「ケア」に置き換えられます。
 夜間の救急外来受診には、別途費用がかかる病院が増えてきました。救急車の有料化も検討されているようです。私が医者になったころから「たいしたことないのに救急外来を受診する『問題患者』」をあげつらう医師は少なくありませんでした。そういう患者を、わざと長く「待たせる」という医者は今も居ます。でも、「たいしたことない」かどうかが分からず、不安になってしまう患者さんは必ずいます。いやな顔をせず、できるだけお待たせせずに診察をして、ていねいに説明することで、不安な夜を過ごさずに済むことができてホッとする人が一人でもいてくれれば、それで良いと私はずっと思っていました。どの人がそんな人かを見極めることなんてできません。十人のうちの一人でもホッとしてくれる人がいれば、診察を受けて「良かった」と思ってくれる人がいれば、他の人から「騙され」たって「ズルされ」たって良い。一人ホッとしてくれる人と出あうためにはたくさんのハズレが必要なのだと思って、私は夜間勤務(当時は当直と言っていました)をしていました。
 それに「気持ちよく診察するほうが、誤診が少ない」のです。誤診や診断の遅れの事例を検討してみると、たいてい、「不愉快な思い」で診察をしている医師が一人は関わっているものです(数字のエビデンスを出すことは難しいのですが)。
 「誠意が通じない患者」に不快感を示す医療者がいます。誠意を「示してあげたのに」それが通じないと悔しいのは確かです。でも「誠意さえあれば通じるはず」というのは誤った思い込みですし、誠意は「通じないことがある」「通じないことの方がずっと多い」のです。そう思って、人とつきあうことが誠意です。
 「患者さんへの敬意」とは、自分に敵対する人、罵声を浴びせる人、黙って見えなくなった人への敬意を持ち続けるのでなければ、生き続けません。
 私のこれまでの人生で、患者さんや他の医師から嘘をつかれたことはいくらでもあります(私は嘘をつかないなどと言っているわけではありません)。カントの言うように生きられる人はいません(本当にカントがどのような場合にも嘘をつかなかったのかどうかは知りませんが)。それが「ふり」でも本気でも、とりあえず相手の言うことを信じるというところにとどまるという選択があると思います。そんなつきあいができる程度には医者は「強い」立場に居るのです。「嘘かもしれないけれど信じてみよう」「嘘だと思うけれど、騙されたことにしておこう」というところから生まれるつきあいがありますし、そのほうが面白そうです。人が人にできることって、ほんのわずかなことしかありません。そのような「真実」の返し方があると思います。

 先日、ずっとお手伝いしてきた仕事の主催者から「お役御免」の手紙を受け取りました。「お断り」を受けることはいくらでもありますし、そのことは全然問題ないのですが、「型通り」の丁寧な言葉遣いの文章からはこれまでのつきあいの積み重ねをどのように受け止めてもらえたのかが全く感じられず、少し寂しくなりました。一番がっかりしたのは、私が断る立場だったらきっと自分も同じような文章を書くだろうということでしたが。ほんの一言でも、型にはまらない言葉があればずいぶん感じは違うものになるのにと自戒を込めて思いました。(2016.06)

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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