No.427 聴く耳をもってくれない医師
コラム目次へ ACP(アドバンスケアプラニング)が円滑に進むように、医療コミュニケーションを分析するという文章に出会いました 1)。どうすれば、医療者が患者さんをACPにつなげる「仲立ち」をうまくできるかということをめざしてのことのようでした。
そこに「多くの高齢者は終末期において住み慣れた家で穏やかに最期を迎えることを望んでいる」と書かれていたのですが、それだけで私は躓いてしまいました。「客観的」な文章のようですが、さりげなく価値判断的なことを言い、ある方向に「誘導」しようとしています。
「住み慣れた家」よりも、医療設備が完備して、専門家がそばにいてくれる病院のほうが安心だと思う人だって少なくないはずです。
身寄りもなく、賃貸アパートで、ゴミ屋敷状態で生きているような人のことは、無視/切り捨てられています。
「多くの高齢者」とは、「いろいろな条件に恵まれた高齢者の多く」ではないでしょうか。そのように思う人がいることは確かですが、「多くの」と書いてしまうことにはすでに予断と偏見/隠された意図があると思います。
「穏やかに」という抽象的でそれ自体は「文句のつけようもない」言葉も、それだけに具体的にはどのようなことを言っているのかわかりません(どのようなことも、そうだと強弁できます)。
ACPで「死に方」への決断を求められ、少し希望を言うと「わがまま」「ぜいたく」と言われ、さらには「過剰治療」「無駄な延命」「金喰い虫」などと言われる(含意される)ことが「穏やかな」医療になるとは考えにくい。「死に方への決断」を求められる世界では、専門家への最低限の信頼さえ失われていきそうです。
「穏やかな医療」は医療者との良好な関係のなかでのみ生まれるものです。コミュニケーションの目的は、そのことに尽きるのであって、それ以外の目的は枝葉末節の(時には相反する)ことだと思います。「上手な仲立ち」を図ることが「穏やかな医療」に結びつくわけではありません。
良好な関係を育むのは、医療者が患者さんの言葉を「聞く(聴く)」ことです。でも、「どうせ聞いてもらえない」「医者なんて、聞いてくれるような人種ではない」と、はじめから訴えることを諦めている人も、きっと少なくありません。だから「なんでも言ってください」と医者が言っても、「大丈夫です」しか言わない人もいます。
「患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのです」(新城拓也さん/緩和ケア医)。
患者の話には、ともかく耳を傾けてほしい。けれども、言葉を文字通りに真に受けてほしくはない。自分が理解できるように物語を修正しないでほしいし、「解釈」しないでほしい。医者にとって都合の良い言葉を「言質」にしないでほしい。患者の言葉を言質に、勝手に医療を進めないでほしい。そのことを忘れずに、そばにいてほしい。患者が話し出すまで待っていてほしい。「穏やかな医療」のためのコミュニケーションは、このことに尽きると思います。
「独居・老々介護」が「今後ますます増加する」とも書かれていたのですが、そのような社会そのものを問う姿勢は感じられませんでした。「自助」「共助」は、言われなくても当事者が考えます(否応なく考えざるを得ません)。学者には「公助」の在り方を考えてほしい。コミュニケーション(技法)は、社会の「矛盾」を糊塗するためにあるわけではありません。(2024.12)
1) 患者さんや家族(「ふだん同居していない家族・親類」を含む/これが大問題だと言う医療者は少なくない)にいかに情報をつたえ、その人たちの症状や問題をいかに「うまく」聞き出すか、いかに医療の枠組みに乗ってもらうか(意思決定支援がいかにできるか)というようなことが課題とされているようでした。つまりは「する側」の論理に留まっているのです。
日下 隼人