No.283 失敗から学ぶ
コラム目次へ 大学生になったころ、受験雑誌に「合格体験記」を書いたことがありました(もう、大昔のことです)。でも、今になって考えてみると、他人の成功談はきっと役にたたない。私たちは失敗した経験からしか学べないのではないでしょうか。
卒後臨床研修でも「充実した研修医生活を送った」「このような考えで〇〇病院を選んでよかった」というような話が飛び交います。医療安全でもコミュニケーションでも病院経営でも紛争処理でも「こうしたらうまく行った」というような話の講演会がしばしば開催されています。でも、人も状況もそれぞれ違うのですから、成功例を真似てもたいていうまくいきません。成功談を聞かされるほうは「あんたは偉い」「よかったね」としか思いようがありません。それで、成功例を聞かされる人は、しばしば自分と成功者との条件や状況の違いを探すことに気を取られてしまいます。
逆に、失敗談からは落とし穴が学べます。落とし穴に落ちないように生きていくほうが、「成功」への近道ではないでしょうか。しかし、「研修病院選択で失敗した」「病院管理の企画がちっとうまくいかなかった」というような失敗談をする人は滅多にいません。しばしば、話すことは多少なりとも気恥ずかしく、そのことで自分が傷ついていますし、失敗したと思っている人はそのことについては目立たないように生きているのですから、失敗談を話すことはなかなかありません(あるていど成功してからなら話すようになります、自己肯定感が強まるので)。それに、自分の失敗談を聞いた人が、そのことでうまくいくとしたら、話した方は何となく不愉快にもなりそうです。
成功談はYou message、 失敗談はI messageみたいなものです。I messageから大切なことが伝わります。医師の教育でも、先人の失敗、医師としての逡巡、そして医療を相対化して見る視点などが、成長を促すはずです。現に私たちも、このようにして「他人の失敗」「自分の失敗」から学んできたのです。「正しいこと」を主張する教育は「主張する」ことを伝えます。だから、「正しいことを言う」人に憧れ師と仰ぎたがる若い人が多いのですが、「自分の言説が正しい」と主張する姿勢が身につくだけのような気がします。知性とは、自分が何を知っていないかということをどれだけ知っているかで量られる、というようなことはソクラテス以来たくさんの人が言っているのに。
この国が歴史の中で犯してきた過ちを「なかったことにする」「功罪があったとして、功を過大に評価する」ような言説を目にすることが多くなりました。過去の過ちを繰り返しているとしか思えないヘイト(憎悪と差別を扇動する)スピーチや本も多くなりました 1)。そこに、個人としても集団としても「否認」「投影」「置き換え」などの自我防衛が働いていることを見てとることは容易ですし 2)、そのようにして自らのアイデンティティを維持する人がいることは理解できます(どの国の人にもあてはまることです)。
でも、自分の国が犯した過ちを認めないような人間は、決して「誇り高い」人間とは評価されないと思います。過去の過ちに言及するだけで、「自虐だ」などと言う人間が尊敬されるはずがありません。日本人に固有な過ちと言うよりは、どのような人間も起こしうる過ちとして「過去に目を閉ざすものは、未来に対してもまた盲目となる」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)のです。進むべき道は、過去の失敗からしか学べないのです 3)。
「不安感や閉塞感がひろがり、共同体の復古的な統合を志向するナショナリズムと市場原理主義的なグローバリズムとが相補性体系をなして均質化・同質化を強めつつある」(寿卓三・愛媛大教授)のが今日の状況です。しかし第二次世界大戦後の時の中で「全体主義、世界戦争、植民地主義と言った負の遺産が、過去の死者たちも含めた犠牲者たちからの告発のまなざしを介して、人びとの歴史認識に食い込」(杉村靖彦・京大准教授)んできたのも事実です。「復古的な統合」に対して、死者を介して歴史を真摯に受けとめようとしている世界の人々の眼前に提出しても愧じない思想を育むというグローバリズムを対置し、市場原理主義的な均質化にたいして「この国の歴史をふまえた民俗的 4)な個性」を対置するという抵抗の形がありうると思います。
先日、ある俳優のツィッターで「この国のために命を捧げた人に敬意を払うことは良いことだ」という意味のことが書かれていました。「あの戦争で戦った人のお蔭で今日の日本がある」という言い方も目にします。でも、こうした言葉・態度は、そのことで自ら命を奪われなかった「安全地帯」にいる人間のものです。戦争での死者は「この国のために命を奪われた人」です。「すべての戦争死は『あってはならない死 5)』である」と思い詰めて、戦争で亡くなったすべての人(兵士だけではない)に詫びる以外、私たちにできることはないはずです。「過ちは繰り返しません」以外の戦争での死者を悼む言葉はなく、過ちを繰り返さないように生きることしか追悼はないのです。
均質化・同質化は、診断、治療から人の死に至るまで、医療の世界も例外ではありえません(むしろ先端を行っているのかもしれません)。そこには、高齢者や障害者に対するヘイト的言説がうごめき、病者や障害者の切り捨てが着実に進行しています 6)。「お国のために過剰な終末期医療を拒んで命を捧げる」ことは称揚されるところから、すでに人として当然の「道」になりつつあります 7)。自己決定という言葉の下、敬意を払われることもなく、祀られることもありません。「人権派」という言葉が揶揄として用いられるような状況に抗して、一人の人間の生きることをどこまでも尊重して患者さんを支えようとする姿勢こそが医療のプロフェッショナリズムには欠かせないと思います。(2017.10)
1) 「私たちが正しい道徳的判断をしたければ、ある行為から影響を受けた人をコミュニケーションする社会の一員と認め、その人に発言することを許し、他の人たちが当人の声を聴き、その立場に共感的に配慮する必要がある。人類の最も不道徳なふるまい、たとえば、奴隷制や人種差別、民族の虐殺などは、ある人びとをコミュニケーションから排除することからはじまっている。したがって、道徳的配慮の境界とは、コミュニケーションの境界にほかならないのである」河野哲也「善意は実在するか」講談社 2007
2) どの国の人にもあてはまることです。岸田秀は、アメリカの自由・平等・民主の共同幻想は、原住民を大量に殺戮した経験の抑圧と正当化に支えられており、その不確実感・不安定感を補うために、他民族にその共同幻想を押しつけ、またときには他民族を大量虐殺するよう強迫的に駆り立てられている(強迫的反復)と言っています(「ものぐさ精神分析」青土社1977)。アメリカが朝鮮半島で強迫的な反復を行う可能性は十分あります(核実験をしているほうは全く論外ですが)。過去に学ばなければ強迫的に同じ轍を踏んでしまう精神構造から日本だけが免れるわけではありませんし、昨今の日本の状況はそちらへの傾斜を強めているようです。
3) 過去の轍を踏まないように、過去の失敗から学ぶべきなのは、「右」「左」といった思想的立場を問いません。20世紀に多発した「人民のための国家」の名の下での大量虐殺という非道からも、私たちは多くのことを学ばなければなりません。それにもかかわらず、最近の政治状況は「ナチスの手口に学ぶ」ことを競い合っているようにさえ見えて、そこには「絶望」に至る広い道のゲートが立っています。
4) 「民族的」の誤りではありません。柳田国男や宮本常一が書き留めてきたような人々(「常民」)の生を貫く姿勢という意味です。そこにこそこの国の共同性があり、それは復古的ではなく、過去にしっかり足をつけながら未来に向かっていく姿勢だと思います。花森安治の「女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起こらなかったと思う」という1945年の言葉も、この次元からの言葉だと思います。
5) 「あってはならない死」は、「無意味な死」「無駄な死」ということではありません。他国の侵略に抵抗した人、戦争に反対して自死した人など、「無駄」とは言えない死があるとは思います。侵略や植民地主義、人種差別に命を懸けて抵抗してきた人たちがいます。「プラハの春」の時に侵攻してきたソ連に抗議して焼身自殺したヤン・パラフ君、ベトナム戦争に抗議して焼身自殺したエスぺランチスト・由比忠之進さんなどの死を、この50年、私はずっと忘れられませんでした。そして、ヤン・パラフ君の志は確かにビロード革命に受け継がれました。けれども、そのような状況でさえなければ この人たちも死ぬことはなかったのです。「死」に線引きをせずに、すべて「状況から強いられた死」は「あってはならない死」です。「貴い犠牲のお蔭で今日の日本がある」とも言われますが、日本だけでなくアジアの何千万もの命が戦争で失われることがなければもっと素敵な現在があったはずです。
6) 「津久井やまゆり園」の事件の後に、「この国は、障害者の差別を認めないし、ましてや障害者を抹殺しようとするような行為は絶対許さない」と言う政治家のいない国が、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め(日本国憲法前文)」ることはできないでしょう。このような国を、「高貴な国」「美しい国」として愛し、誇ることは簡単なことではありません。白人至上主義者やネオナチに対して、「お前たちは愛国者を気取っているが、愛国者でもなんでもない」「出て行け。そして、二度と来るな」とヴァージニア州のテリー・マコーリフ州知事は言いました。このような人の前に出ても愧じない態度をこの国でも取ろうとすることがグローバリゼーションであり、「過去に学ぶ」ことだと思います。
7) すでに高齢者への医療手控え(「75歳以上にはがん治療を行わない」「高齢者には救急医療を行わない」など)を公的・公立病院の医師が公言するところまで来ています。手控えの範囲が、障害者・他国籍者・「自業自得の人」・犯罪者・LGBT・・・・と広げられていくことへの歯止めは作りようありません。現実には、75歳以上の人でもその現況・「社会的価値」・経済力などで選別され、高齢者と障害者との間で優先順位がつけられるというような「いのちの選別」が行われるでしょう(現に行われつつあります)。自ら進んで医療を「辞退」することが「あたりまえ」のこととして迫ってきつつあります。先に挙げた発言は、その雰囲気づくりをしています。