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No.336 Early exposure

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 保育園実習の医学生がまじめに来なくて困っているという話を、保育士から聞きました。連絡なしに遅刻する(来ないこともある)、黙っていなくなってしまう(コンビニに買い物に行っていたらしい)、などなど。これは、医学部1年生のEarly exposureの一環として行われた実習です。医学教育にかなり熱心な大学の学生だったのですが、大学に報告したところ「そちらで指導してください」と言われてしまったとのことです。「大学の教育が良くない」と怒る人もいたのですが、私は「仕方ない」という気がしてしまいました。苦労して医学部に入って、達成感と解放感に満たされている学生が、入学早々「保育園を見てこい」と言われてもとても身が入らないでしょう。「医者になるのに、なんか関係あるの?」「やってらんないよな」。学生というのはもともと枠にはまりたがらないものですし、まして教員の目が届かないところなのですから、私でもやりかねないと思いました。保育園実習にいくばくかの意味が生まれることがあるとすれば、小児科のBSLの中でそれを行うときでしょう(看護実習では行われます)。それでも、学生にはピンとこないかもしれません。小児科医1年生には、ただ子どもたちを眺めているだけで良いから(余計なことはしないで、「元気な子どもはこんなふうなんだ」と感心していればよいから)1日くらい保育園に行くことを勧めたいとは、私はずっと思っています。
 Early exposureとして保育園があまりに縁遠いということならば、医療現場中心にすればよいでしょうか。クレール・マラン 1) は『熱のない人間 治癒せざるものの治療のために』(法政大学出版局2016)で次のように述べています。
 「医療を学ぶということは、しばしば思春期を卒業したばかりの人々が、未知の状況と暴力的に遭遇する経験である。そこで経験されるのは、身体の漸進的劣化の発見であったり、病む肉体の現実であったり、死体のにおいであったり、さらに意気消沈させる文化的社会的な現実であったりする。新たな表象と折り合いをつけることを要求する、数多くの衝撃」。
 「医学教育・・・に進路を定めた若者のある部分は・・・、社会的にも文化的にも恵まれた階層の出身者であり、・・・自分たちの生の思ってもみなかった裏面、ひどく不安定な一部の人々の生活との対面はしばしば耐え難いものとなるのである」。そのような医学生に対して、early exposureは「将来の医師の感受性を強固なものにするためのしごき」であり、「(医学生の)看護ケアの導入研修」とは「傷んで穢れた状態にある身体の現実との突然の遭遇・・・死体との対面」を迫る。Early exposureは「まさに一連の参入儀礼である。・・・枠付けも意味づけもなく、人々がその一生の中で遭遇しうるありとあらゆる苦しみにいきなり出会うという形で行われる。このような暴力の集中を、何の準備もなく体験させるべきではないだろう。その経験は、そこに説明(註:病気についての講義→実習など)が伴っていなければ、非人間的だと言ってよいものとなる」と言い、学生には「防衛」が先立ってしまうだろうと言っています。
 さらに「医療教育課程への参入儀礼における暴力の典型は解剖である。・・・学生が解剖の実習において見出すものは、他者の身体であるよりもむしろ、それまで知らなかった、おぞましいものに対する自分自身の身体の反応である」と言い、「医療用語は・・・医療世界の中での知と権力の結びつきを、より明確に示している」2) とも言っています。
 もし「身体の漸進的劣化」「病む肉体の現実」「死体のにおい」「意気消沈させる文化的社会的な現実」といった現場に接する実習に教育効果を求めるのならば、それはBSLの一環ないしBSL終了後に行われるべきではないでしょうか。「BSLが終わったら国家試験準備で忙しい」と言われそうですが、その現状の変革を考えることこそ、医学教育者の仕事です。(2019.11)

1) クレール・マランについては、No.249250で引用した『私の外で』(ゆみる出版 2015)も名著です。

2) だからこそ、医者は患者さんに向かって、医療用語を平易な言葉で話さないのかもしれません。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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