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No.378 人権を守る砦

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 「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」と自民党憲法改正草案(以下、「草案」)について「誇らしげに」書いたのは片山さつき議員です。
 この天賦人権論の理解は誤っていると思いますが 1)、「権利は“天から”自動的に付与される」ものではないということには私もある程度賛成です。権利は、その獲得のためにつねに「闘い」2) つづけていなければ得られないし、いったん得られてもそこに安住してしまえばすぐに失われてしまいがちです。「患者の権利」だってそうです。多くの病院の入り口に掲げられている「患者の権利宣言」は、「人間の尊厳」を守るためにたくさんの患者さんやご家族が地道な闘いを積み重ねてきた成果なのです。「患者の権利」も、「闘い」続けなければすぐに「奪われて」しまいかねません(病の真っただ中にある人が闘うことは難しいかもしれません。その限りでアドボカシーには意味があると思います)。「患者の権利」を掲げている病院は、患者からの訴え・告発を正面から誠実に受け止め、その「闘う」権利を保障してはじめて言行が一致していると言えるのです 3)。人間にとって大切なのは、「国を維持する」ことでも「病院を維持する」ことでもなく、「かけがえのない自分を維持する」ことです。

 憲法は、「人間が自分らしく生きられるように、国は何ができるか」を宣言するためのものであり、「人間の尊厳」「人権」を保障し、それを求めて「闘う」権利を保障することだと私は思っています。「草案」では、現憲法の「第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」が全文削除されています。それは「草案」11条の「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」と重複するからだと片山議員は主張しています。けれども、97条が言わんとしているのは、人権は自動的に与えられているものではなく、それを確保するために人類がたえまなく闘い続けてきた成果であり、これからも闘い続けなければ維持できないものであるということなのだと思います。「草案」は、「人民の闘う権利」「闘いに応える為政者の義務」を意識的に無視しています 4)
 性差別・LGBTQ差別反対の法案も選択的夫婦別姓も拒み、歴史修正主義や民族差別・ヘイトに「寛容」で(むしろ「自虐史観」などと言って積極的に促進し)、非人道的な「技能実習生」や入管体制の在りようを放置し、津久井やまゆり園事件に際して「障害者差別を絶対に認めない」と宣言するどころか精神障害者差別にすり替えた、そうした姿勢にこの政党は留まっています 5) 6)。それは「保守」ではありません。「保守」と「人権を守ること」とは相剋するものではないのです。
 このような姿勢は、「老人」や「障碍者」が、そして病気を持つ人が、それと並行して「生活保護」受給者やホームレス・在留外国人が、差別され切捨てられていく途へと繋がります。日本国籍のない人は、援助の対象と考えられていません。片山議員は相対的貧困を扱ったドキュメンタリー番組に対して「(絶対的)貧困ではない」と批判した人ですが、貧困層を「自助努力がない」として切り捨てる途にも通じます 7)。「反日」という非知性的レッテル貼りを排除につなげようとする言葉は、現に頻出しています。
 「人間の尊厳」「人権」の保障は、「闘い」続けることでしか維持できないのです。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない」という文章は、「草案」にすら残されています。医療の目的は一人一人の人権をかけがえないものとして守ることだと思いますが、「公共性」などの名のもとに人の生きる権利を「剥奪」してしまう力も医療は持っています。医療は、人権の最後の砦であるけれど、人権侵害の最強の凶器という性質を持ってもいる「諸刃の刃」です。「それならば、あなたはどうする?」と、いま私たち医療者は問われています。(2021.09)

1) 岡野八代はこの「草案」に対して「個人の尊厳に・・・における個人主義は、決して公共性を切り崩すものではなく、むしろ近代の公共圏における『新しくて近しい絆』として作用しうる・・・。尊厳とは・・・・個人主義的でありながら、かつ普遍的な理念として、私たちを人類に結びつけているのだ。」「諸個人の権利の尊重は利己主義なのだと歪曲され、諸個人の権利『対』責任・義務・公共の福祉といった、諸個人の権利と公共性を対立させる認識枠組みを持っている」と書いている。『戦争に抗するケアの倫理と平和の構想』(岩波書店2015)

2) 本稿で「闘い」というのは、「こぶしを振り上げ、デモをする」というようなことよりも(それもときに必要だが)、日々の暮らしの中で「大切なこと」は決して譲らない姿勢、「ソフトで、しなやかな、不断の努力」を考えている。

3) それなのに、「患者の権利」の後半に「患者の義務」「お願いしたいこと」が「さりげなく(あるいは露骨に)」付け加えられているのは、「患者の権利」を台無しにしていると思う。ごくわずかの「問題患者対応」のために、来院した患者全体に上から目線の「厳しい」言葉が投げかけられているのは本末転倒だ。それにもかかわらず「『温かい医療』を行います」などとも書かれているのだが、それは「病院の言いつけに従っている限りで『温かい医療』をしてやるよ」という姿勢である。

4) 「ここには、・・・・国際社会において日本が負うべき責任も、普遍的原理の尊重も、歴史的に多くの悲劇を繰り返しながら培ってきた叡智に対する関心も存在しない。・・・国家が存在するのは、個人の尊厳を守るためである、といった立憲主義の基本的な考え方がすべて否定されている。」岡野:前掲書

5) 以前、元法務大臣であった自民党議員は「国民主権、基本的人権、平和主義、これらをなくさなければ自主憲法にはならない」と言った。その言葉を咎めなかった政党が提案する「こども庁」の創設という言葉に喜ぶ小児科医がいることには、驚いた。「子どもに関する施策推進の司令塔」として「こども庁」を作ると言うのだが、「司令」という言葉と子育て・教育はなじまない。現に、歴史修正主義を教育現場に押し付けようとする国会議員は、そのことを誇らしげにツィッターに書いている。「こども庁」ができるとすれば、1994年に日本が批准した「子どもの権利条約」を政府が守ることは必須であるが、それは「草案」の思想とは相反している。「古い酒を新しそうな革袋に盛る」という不吉な予感さえしてしまう。

6) 「草案」では「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」というポエムのような文章が書かれている。これに対して、岡野は「家族・共同体・国歌が同心円状におかれ、国家にすべて取り込まれている」「近代的な「尊厳」・・・の否定・否認。・・・国家絶対主義、換言すれば国家によってあらゆる領域-個人の内部さえ含んだ-を独占しようとする強い政治的意思である」と舌鋒鋭く書いている。岡野の批判はもっともだが、どちらも1945年以前の価値観の持つ力を過大評価しているのかもしれないとも思う。たとえ「草案」のような文言を憲法に盛り込んだとしても、現実の社会は「草案」を考えた人たちの思うようには動かないだろう。「草案」は、酒井直樹の言葉を借りれば「21世紀の問題を20世紀のやり方で解こうとしている」(『ひきこもりの国民主義』岩波書店2017)のだから、それでは「解ける」はずもなく、矛盾が深まるだけである(矛盾は、しばしば非合理的な方向にその解消の流路を求め、行きつく先には破滅が待っている)。
 児童虐待、高齢者虐待、家庭内暴力などが日常的なことになっているのに「家族は、互いに助け合わなければならない」などというのは、「現実否認」でしかない。この条文をたてに「家族間介護」や「親孝行」などを求める(公助すべきものを自助・共助に押し付ける)かもしれないが、それは「弱い者いじめ」であり、さらなる混乱をもたらすだけだろう。「家族は国からも他者からも侵入されないユートピアなどではなく、もっとも明確に国家の意思の働く世界であり、もっとも力関係の顕在化する政治的世界なのかもしれない」(信田さよ子『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』角川新書2021) 「親を捨ててもいいですか?と聞かれたら何と答えますか」と問われた信田は「捨ててもいいんじゃないですか、と答えます」「そう言ってくれる人がいないからです。だからカウンセラーくらいはそう言ってあげてもいいと思います」と言っている。(NHKクローズアップ現代2021/5/6)永田夏来は「さまざまな機能が外部化していったとしても、家族にしか担いえない特別な人間関係は必ずあるはずだという期待ですが、これについて私は明確に『ない』と考えています」と言う。(高橋幸+永田夏来「これからの恋愛の社会学のために」『現代思想』2021年9月号「〈恋愛〉の現在」)
 橘玲は「日本も世界も、リベラリズムの巨大な潮流にのみ込まれている・・・東京五輪で、女性蔑視発言や過去のいじめ、ホロコーストをネタにしたコントがあれほど炎上したのは、以前よりも日本社会が差別を容認しなくなったからでしょう」「リベラリズムの本質は、レディー・ガガが歌うように、『自分らしく自由に生きる』という価値観でしょう。『私が自由に生きるのだから、あなたにも自由に生きる権利がある』という自由の普遍性によって、人種、身分、性別、性的志向など・・・を理由とした差別は許されなくなった」「いまやリベラルでなければ、グローバル市場では生き残れない」と言っている(朝日新聞 オピニオン&フォーラム2021.9.3)確かに、国連総会や中国で「日本の戦争は侵略ではなかったし、アジアの人たちの虐殺も従軍慰安婦もなかった。LGBTは異常だ。夫婦別姓を認めると日本の伝統が崩れる」と、ふだん国内で声高に言っていることを演説する政治家はいない(閉じられた島国のなかでだけ曲がりなりにも通用する自己満足的な言葉を「世界で言うのはまずい」というくらいの判断力は持っているらしい)。天皇を元首としたいようだが、皇室も「草案」の期待とは異なる方向に変わりつつある。

7) 「さもしい顔して貰える物は貰おう。弱者のフリして得しよう。そんな国民ばかりじゃ国は滅びる。・・・人様に迷惑かけない社会へ。・・・」と高市早苗議員はかつて発言している(選択的夫婦別姓反対の急先鋒でもある)。このような「さもしい」思想の政治の下で滅びるのは、国民である。世界的に反知性主義やポピュリズムが蔓延している中、この国の未来について楽観ばかりはしてはいられない現実も間違いなくある。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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