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No.330 在野

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 今年の医学教育学会総会は京都で開かれました。私が初めて参加した30年前には演題数70くらいのこじんまりとしたものでしたが、今年は7倍にもなっていました。30年前には医学教育学会そのものがいかにも医学界の在野の人々の集まりという印象でしたが、今ではこの学会もestablishment(「在朝」)になった感があります。学会の形態も他の学会と変わりないものになりましたし、「医学教育専門家」制度も創設されました。医学教育に関する論文は学術論文らしい形式を備えたものしか見かけなくなり、その内容も基本的な型を守るものばかりになりました(用語の用い方、論の進め方など) 1)。「医学教育誌に投稿しよう 投稿虎の巻」というシンポジウムが組まれていたのはご愛嬌ですが、そうした枠を超えた「面白い」問題提起は語られなくなってしまいました。一方で、輸入物の言葉や目新しい言葉が飛び交う状況は変わっていません。Establishmentになることで、自分も一人前になったような気がしてホッと一安心する人も少なくないのかもしれません。
 とはいえNo.327で書いたように、医学の大河は別のところを流れています。自然科学としてのサイエンスが重視され、インパクトスコアの高い成果が求められ、産学協同が進められる流れが、医学の本流です。現在の医学研究は、遺伝子と分子生物学というごく微小な世界での気の遠くなるような複雑な反応の連鎖の探究に追いまくられているようです 2)。その研究室から外来や病棟に出てきて、すぐに患者の気持ちにまで心が及ぼすことができない医者がいてもおかしくありません。それを人格の問題に還元してしまうのは「原因帰属の錯誤」です。
 そのような医学の大河から見れば、医学教育などその脇を流れる小川でしかありません。合流すれば、小川はすぐ呑み込まれてしまいます。世の大勢に呑まれ、むしろ積極的に加担していかなければ歯牙にもかけてもらえませんから、医学教育も、形だけでも似たようなものになっていかざるをえません。もちろん、みんな頑張っていますし、医学教育というとらえどころのない対象に対していろいろ工夫していることも学会で感じられたのですが。
 大河のほうとしては医学教育など気にもしていないのですが(自分とは関係ないことだと思っています)、医師国家試験や卒後研修制度などの設計には医学教育学会がかかわっており、自分たちもその影響を受けざるを得ないので(余計な仕事が増えるので)、いくばくかは気を使います。そのことが、なおさら医学教育関係者に対する不快感を生みます。あるいは、教育・研修に関わることや医療倫理・プロフェッショナリズム教育、国試対策などはすべてそちらに「お任せ」、「おきばりやす」とだけ言って自分たちは生物学的研究や産学協同に努めるという構造になっています。こうして、医学教育の制度設計はゆがみを孕まざるを得なくなります。当初は異物として出現したものを、無視するどころか尊重するような姿勢を見せつつ、無害化して、あるいは大河の流れを促進するように変形して取り込むというのは、管理社会の常套手段です(障害を持った国会議員も同じ途をたどるかもしれません)。
 模擬患者活動など、その小川に生じた淀み程度のものにすぎません。大河に乗っている人たちの視野の隅っこにでも止まれば、ましなほうです。関心もないのに、OSCEの時には「お世話になっています」などとお礼を言うこと自体が「めんどくさ」です。淀みから出る水音など、「ごまめの歯ぎしり」ほどのものでもありません。
 だからこそ「大勢がきまったと判断され、その判断が現状にあたっていると思われるときに、その後は大勢に身をまかせるのではなく、いくらかの原則をたてて異議申し立てをつづけることには意味がある。明治以後の日本の伝統に欠けているのは、この習慣である」という鶴見俊輔の言葉を噛みしめたい(「『君が代』強制に反対するいくつかの立場」『思想の落し穴』岩波書店1989) 。大河に真正面から立ち向かう玉砕戦略をとることだけが途ではありません。Establishmentからできるだけ身を離しつつ関わるという途があるはずです。establishmentに身を置く限り、視力の、少なくとも一部は衰えていきます。在野の医学教育者は、いつの時代にも欠かせないと思います。在野にあるからこそ見えてくることがあり、そこからしかできないことがあります。その姿から、患者さんや他の医師に何かが伝わります 3)。(2019.08)

1) 例えば、プロフェッショナリズムについての発表ではどれもいくつかの(しばしば7つの)原則がまんべんなく語られ、そこに一つ二つの論点が付け加えられることになります。「そのうちの一つだけで良いではないか」「こんな教育には意味がないのではないか」というような発表は採用されないでしょうし、「虎の巻」に外れるのでそもそも提出もされないでしょう。アウトカムばかり言っている人に「本当に大切なことは目に見えない」(サンテグジュペリ「星の王子さま」)という言葉を学会の場で言っても場違いなだけでしょう。学会は「本当に大切なこと」を話し合う場ではないのかもしれません。
 こうした発表の中での医学生や患者はプレパラートに固定された切片標本のようです。それも固定したためにきっと変形しています(消化管の杯細胞は、古典的な標本作成法のためにそのように見えるだけで、実は杯形をしているわけではないということに似ています)。学生の実習前と直後のアンケートでの違いについての報告も散見されましたが、そこで分かるのは教師の喜びそうな答案を書ける学生の能力だけです(発表者も、本気で「良い」と思っているふうではないといつも感じます)。私はずっと患者経験者が語る「患者の気持ち」などコルクのようなものだと思っていますが(患者の混沌とした思いは言葉にまとめられないものですし、言葉として語られるのは患者さんの混沌とした思いの残骸だけです)、それでもプレパラート標本と比べればずっとましなものです。

2) 世界中で膨大な人たちが生物学的研究に従事しており、その結果次々に明らかになる極小世界での微小な現象には感嘆するほかありません。けれども、そもそも生命現象の第一歩がどのようにして踏み出されたのかは謎のままです。

3) 「若い先生の診察をお受けになってみると、勉強になることが多いです。彼らはそのあたりをちゃんと教育されていることが多いので。若くてもダメな医師もいるかもしれませんが、診察前の挨拶などは、きちんとしているドクターが多いように感じます。」医師の態度について、医師用サイト・メドピアのFORUMへのコメントです。OSCEや医療面接の教育が少しずつ成果を出していることも確かなのです。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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