No.285 コミュニケーション能力?
コラム目次へ 「コミュニケーション力」「コミュニケーション能力」という言葉がよく使われています。でも、「能力」という言葉の裏には「能力主義」があるような気がしますし、その向かい側には「コミュ障」という言葉が見え隠れもします。貴戸理恵さんは、次のように書いています。
「私はかつて、コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、『能力』として個人の中に固定的に措定することを『関係性の個人化』と呼んで批判した。そこには意思疎通というコミュニケーションしている双方がとりくむべき問題を、『能力がない』とされる個人の問題に塗りこめて知らぬふりをする『普通の人』への疑問があった。」(「『自己』が生まれる場」現代思想45-15 2017)
医療面接演習では、時間も状況も限定されていますので、会話を通してお互いの相手に対する感情が変化し、相互に影響し合い、会話を通して人間関係が深化するというダイナミズムを経験することはほぼ不可能です。「技法」という言葉には、そのような視点ははじめから希薄です。
でも、ほんとうは、コミュニケーションは生活の知恵であり、普通の暮らしのおつきあいなのです。「技法」というよりも「作法」という言葉のほうがぴったりします。ほとんどの人の場合、これまでの人生の中で人とつきあう「作法」をすでに身につけています。「その身についている作法を、患者さんと接する時にきちんと守ってね」と言うことができれば、教育としては十分のはずです(「作法を知らない」若者のことがしばしば語られますが、たいていは作法を守らない大人の鏡です)。技法だと思うと、技法通りにしているのにうまく行かない場合、「相手が悪い」と思いがちです(「帰属の錯誤」)
相手の人が自分に対して「好意」を抱いてくれていると感じられたら、人はその好意に応えようとします(「返報性の原則」)。こちらの好意に応えようとしてくれる人をみれば、さらにその人への好意が増します。人と人との関係は良い方向に進みます。
医療の場で言えば、このスイッチを入れるのは医療者です。医者は初めて患者さんと会う時に「どんな人なのかな」「嫌な人じゃないと良いな」と思います。患者さんも同じ思いでいます。私たちの出会いは、いわば「相互不信」「猜疑心」から始まる「不幸な」出会いなのです。
保険種別を見ただけで患者さんのことを「大丈夫かな」と思う医療者もいます。名前や居住地を見て、「苦手」だと身構えてしまう医療者もいます。顔を見るなり「わあ、合わない」と思うこともあります。話し方や声で躓いてしまうことは、案外多そうです。小児科では「お祖母ちゃんが来ちゃったよ、だいじょうぶかな」「怖そうなお父さんが来てしまった」「ことばが通じなさそう」「ヤンキーな母親だな」「なんだ、この茶髪な子は」「落ち着きのない子だな」「こんな服装で病院に来るのか」「こんな化粧で来るのか」などと思って、つきあいが「ぎこちなくなる」医療者は少なくありません(これまで「そのような扱い」をされてきたのだろうなと感じる人に、私は何度も出会いました)。どの患者さんにでも、何か気になることはあるものだというほうが正しいかしれません。
だからこそ、スイッチは医療者の好意をこめた挨拶から始まります。心からの好意を込めた挨拶、「ようこそ、ここへ」という挨拶を「頑張り」ます。それは感情労働ですが、ここでエネルギーを使えばあとはなんとかなります。
医療者が相手の人に好意を抱いていることが伝われば、病気になって心細くなっている患者さんは、その医療者の態度で「地獄に仏」と感じ、心が明るくなります。もともと「良い医療者にあたると良いな」と願っているのですから、患者さんは医療者のちょっとした温かさを過剰なほど好意的に受け止めてくれます。そこからは患者さんがコミュニケーションを進めてくれます。原動力は患者さんが不断に供給してくれます。もちろん、患者さんが、コミュニケーション技法や心構えを具体的に指導してくれるということではありません。「先生、(良い人そうだから)頼りにしてますよ」という患者さんの好意をないがしろにできる医療者はいませんし、ないがしろにしなければコミュニケーションはよい方向に深まっていくのです。
私たちに必要なのは、相手の人のその好意を受け止め、相手に合わせる変幻自在さ、その結果としての自分が変わることのできる柔軟さを身に付けることです。その人がつくりだす流れに乗るということです(それを、コミュニケーション能力と言っても悪くはないでしょうが)。
「『聴く』という作業は、・・・・相手の話の流れに、自分が乗っかっているんです」(神田橋條治「精神科講義」創元社2012) 。傾聴というのは、「聴いてあげる」ことではなく、患者さんと一緒に流れに乗っていくということです(「流される」ということではありません)。流れに乗るのですから、当然自分の立ち位置が変わります。自分が確かだと思っていた足元が揺れ動き、それに合わせて自分の態勢を立て直さなければなりません。しかも、自分の軸心は動かさないように踏みとどまらなければなりません。軸心がしっかりしていなければ、柔軟にはなれません。それには、「この患者さんととことんつきあおう」という受持医としての覚悟と責任感とが必要です。
その意味で、医学生の医療面接演習やOSCEはリアリティから遠いところにあります。限られたことしかできない演習の中でも学べることはたくさんあるのですが、限界をしっかり自覚した上で参加している学生よりは、とりあえず「うまくやりすごそう」とする学生の方が多いかもしれません。そのような雰囲気が嫌であったり、その限界が気になって演習に「乗れない」学生もいるでしょう。
「感情労働としての看護」(ゆみる出版)の著者である武井麻子は「患者に近づけない学生や、不適切な反応を示す学生の反応の中にこそ、深い共感が潜んでいるかもしれない。」「看護に必要な感情は、そんなに大それたものではなく、学生たちのちょっとした興味や好奇心、必要とされる感覚、必要とされることを自分が必要としているという自覚、自分もまた与える人ではなく求める人であるという自覚なのではあるまいか」と言っています。(川本隆史「ケアの社会倫理学」有斐閣2005 所収)(2017.11)