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No.287 「煩悩具足」の身

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 教育とは、先に生きた者の思いを、後から来る人々に「伝える」ことです。
 教育とは、教え込むことではなく、こちらの思いを日々の自らの行動を通して伝えていくことです。接遇教育はその典型で、講義や演習の果たす役割はわずかです。接遇について、上に立つ人が身をもって実践すること以上のものは伝わりません。上の人が、本気で、心から接遇が大事と思っていなければ、教育はできません。上司が率先して挨拶しないところでは、一般の職員が挨拶しなくても粗雑な挨拶しかできなくても仕方ありません。上の人が実践していなければ、いくら接遇の重要性を叫んでも、「この病院は、本気で『やる気』にはなっていないな」と感じてしまうので、良い接遇をしようと職員は思いません。本気度は、指導的な立場の人の言動で見定められます。真っ先に実践しなければならないのは、最高責任者(院長など)です。コミュニケーション教育も同じです。

 成人教育は、若い人たちを信頼することからしか始まりません。若い人たちは、今はできていないことがいっぱいあっても、いつかはきっと私たちよりも何事も素敵にできるようになります。この若い人たちが担う未来を私たちは見ることができないかもしれませんが、きっと私たちより秀でたものになるという信がなければ、教育に関わることは苦痛に満ちた仕事になってしまいます。教育に関わるということはオプティミストになるということです。
 若い人を信頼していれば、叱責や罵声は出なくなります。「こんなことじゃだめだ」というような言葉には、言う人を「満足」させる力しかありません。言われた人にはまず反発する心が湧きだし、その後の「指導」を真剣に聞く気がなくなります。非難や叱責は、それだけで教育への途を閉ざします。
 「問題がある言動をした」「配慮に欠けている」と感じたときに、当人に「どう考えたのか教えてくれない?」「なにがあったの?」というように尋ねることには教育的意味がありますが、ソクラテスのように質問を重ねて相手を「追い詰め」るのはきっと拙いでしょう。できないところを逐一「責め」ることはたいてい無効です。「できていない」ことは本人もわかっていることが多いのです。「貴方が自覚していることは、分かっているよ」と伝えることの方がきっと教育になります。大きな枠組みを守ることは求めなければなりませんが、こまごまとしたことを窮屈な枠組みにはめこむことはきっと逆効果です。多少模範から外れていても、その個性を尊重したい。自分が尊重された経験をすることで、他人を尊重する人になってくれるでしょう。

 はじめて出会う瞬間の印象が良ければ、あとは患者さんが医療者や学生を育ててくれます。つきあいを深いものとしてくれます。もちろん患者さんが直接「指導する」ということではありません。「もっと話してよさそうだ」「この人は良い人のようだ」と感じた患者さんが、こちらの顔色を窺いながら出してくるいろいろなストロークに「応酬」することを通して、私たちは自ら学んでいくのです。そのことが、つきあいを深めます。
 ストロークの中には返しにくいものがあり、その返しにくさに当事者が呆然としてしまうことがあります。教育者の仕事は、当事者が患者さんとどう接したらよいか悩んで立ち止まったときに、「悩んで立ち止まって良いのだよ」ということを伝えることです。「悩んで立ち止まる」ことのできる人は、それだけで十分有望なのです。当事者のとまどう言葉を聞き流さず、とまどう表情を見逃さずに一緒に立ち止まること、その「涙」や「落ち込み」や「迷い」を無条件に支持すること、そして一緒に悩むことが先に生きたものの務めです。歩み続けることを促すことも歩むべき方向をすぐに示すことも、教育ではありません。
 若い人のことを気にかけて見ていなければ、「悩んで立ち止まっている」ことに気づきません。それでも、いつもこちらが気づくとは限らないのですから、「悩んで立ち止まっている」と気軽に話してもらえる雰囲気を作ることが欠かせません。若い人が感じたことや思いを自由に話せる場=雰囲気を作ること、どんなことを言っても受け止めてもらえるという信頼を育むことは教育そのものです。
 若い人の言葉に、こちらが「ハッ」としてしまう新鮮な驚きを感じることがあれば、必ずそこで立ち止まって、一緒に考えてみます。その時、自分は若い人の思いに「共感」しているのです。若い人の思いに共感しないで、患者への共感を伝えられるはずがありません。伝える人と伝えられる人との双方がともに楽しくなることがなければ、きっとそれは教育ではありません。

 ほとんどの医療者は驚くほど善意に満ちていて、患者さんのために働きたいと思っています。患者さんを「支援」するために医療者がどのようにすればよいかという言説は満ち溢れています。けれども、医療者がどれだけ患者さんに受け止められ、包容され、許され、そこに成り立つ患者さんとのつきあいのお蔭で成長し自分の人生が支えられているかということについては、それほど医療者は気づいていないのかもしれません。この「医療者」を「教育者」に、「患者さん」を「学習者」に置き換えても、全く同じことが言えると思います。
 「挨拶」は、未熟で欠点だらけの(親鸞の言葉 1) を借りれば「煩悩具足」です)自分が、患者さんの広大な「世界」に飛び込ませていただくことへの「祈り」なのです。「挨拶をしても良い関係は作れない」とコミュニケーションに関する本の書評で書いている人がいましたが、祈りでない「ただの挨拶」では「出会い」が喜ばしいものになることもありませんし、その後のつきあいを患者さんが動かしてくれるきっかけが生まれることもありません。 (2017.12)

1) 「歎異抄」岩波書店1981
 医療倫理を語る時にも教育を語る時にも、人は我が身が「煩悩具足」であることを脇に置いてしまいがちです。倫理や教育を語る人は、どうしても親鸞の言う「善人」になってしまいがちです。「悪人正機」の教えを、「難しい言葉で哲学や倫理を語る人でさえ患者さんのケアができるのであるから、いわんや、知識がないこと・人間としての自分が全く至らないことに恥じ入りながら患者さんとつきあおうとする人にケアができないはずがない(そのような人たちの患者さんとの付き合いこそがケアなのだ)」「多くの経験を積んでしまった人でさえ患者さんのケアができるのであるから、いわんや、経験がわずかしかないために謙虚にならざるをえない人にケアができないはずがない」と読み替えることができる気がしています。
 長く生き、経験を積んできた人間には、もう「大丈夫だよ」「よかったね」「たいへんだったね」「それでいいんだよ」「あなたはそのままでいいよ」というような言葉しか手元に残っていません。その言葉を、タイミングを選んで言うことができれば、それだけで十分です。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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