No.264 棄民の時代
コラム目次へ 2016年に起きた「相模原障害者殺傷事件」「横浜の病院に入院中の高齢者殺害事件」、そして「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というブログの発言に、私は、私たちの社会の地盤が問われていると思いました。これらの事件・発言を貫く「思想」に対して、どのようなスタンスをとるのかということが、あらためてこの国に生きるみんなに問われているはずです。その問いに答えることなしに医療のことを考えることはできませんし、ましてや医療に関わることはできないと私には思えるのですが、病院で医療倫理に関わる人の間でもあまり議論されていませんし、関係のありそうな学会のHPも沈黙しています。問題を丁寧に受け止めたいということなのでしょうか、混迷が続いているのでしょうか。単なる「おかしな」人が起こした事件として「納得」しようとしているのでしょうか。
例のブログは、糖尿病性腎症のために透析を受けている人のことを念頭において、糖尿病の「自己管理」ができていない=不摂生の人がそこに至るのは自業自得(自己責任)であるという意味で書いているようです(ずぶずぶの生管理的思考です)。透析を受ける原因は糖尿病以外にもいろいろなものがありますから、そのことを根拠に「事実誤認だ」と指摘することは可能ですが、それでは同じ土俵に乗ることにしかなりません。透析を受けている人の100%が「不摂生による自業自得」であっても、医学的治療によって(一時的にでも)事態が改善するのであれば、その人が医療を受ける権利を守ろうとするかどうかということが問われていると思います 1)。
相模原の事件について、知的障害者との共生について多くのことが語られていますし、障害者とのつきあいが私たちを豊かにしてくれるというようなことを語る人もたくさんいました。障害者の「良いところ」をいろいろ挙げている人も居ます。でも、「障害者にも良いところがある」というようなことを、批判の論拠にしてはいけないと思います。ほんとうに何の反応もなく(という人は実はいないのですが)身動きもせず寝ているだけの人とであっても、「良いところが何もあるとは思えない」人(そんな人もいないのですが)とであっても、全く何の「役にたってもいない」としか思えない人とであっても、共生の途を選び取る社会を作っていくのか否かということが問われています 2)。
高齢者の透析については、「いつまでするの?」という問いが隙あらば(隙がなくとも)浮かび上がってきます。大災害が起きたら、経済危機が起きたら、この問いがいっそう露骨に迫ってきます。高齢者医療については、透析に限らず「必要ないのではないか」「いつ治療を中止すればよいのか」「治療の中止基準が必要だ」というような言葉が多くの医師から語られています。言っている医者は、「自分はそのような治療を受けない」と思っているのでしょうか、自分は何歳でも治療を受けるに値する人間だと思っているのでしょうか、「こんな状態なら、もう人間じゃない」と思っているのでしょうか 3)。でも患者側から見れば、「高齢者の医療をいつ止めようか」と考えている医療者に自分や自分の身内を託せるでしょうか。横浜の病院での事件は、高齢者には病院や施設も自宅(介護の態勢が決して十分ではない)も安心して過ごせる場所でないことを示しているかのようです。
ここにあるのは「棄民」「姥捨て」です。「このような人への医療は無駄ではないか」「このような人は生きている価値がないのではないか」という、「このような人」の選別と廃棄への思惑がそこにはあります。年齢にかかわらず病者は、病気の重症度に応じて棄民の対象になります(まさしくトリアージです)。2025年に向けた医療政策は(そして、グローバリゼーションというようなことも)、どのような言葉を用いても、棄民を別の記号に言い換えて目くらまししているだけです 4)。医療経済を視野に入れたら、医療政策を考えだしたら、私たちはこの枠組みから逃れられなくなります。医学の進歩を称揚することも、棄民につながります(遺伝子治療はその典型です)。「良い死に方」「望ましい死に方」を考えたとたん、この枠組みの中に取り込まれます。「健康年齢がだいじ」「ピンピンコロリが良い」という言葉の中にすでに棄民意識が入り込んでいます(そのことは、心の中で誰かを「殺している」ことになります)。「健康ゴールド免許」などと言い出す(棄民をこのように言い換える)人たちには、もしそれが本気ならば「馬鹿か、馬鹿なのか」と言うしかありません 5)。
今回の事件で、私たちは刃を突き付けられました。でも、同時に私たちは刃を突き付ける側でもあるのです。ボードレールが「おれは犠牲者であって死刑執行人だ」と喝破したのは随分昔のことですが(「悪の華」1857)、それは今日の現実です。その途(=棄民、そして事件を貫く思想)を受け入れるという選択ももちろん「あり」ですし、そのほうが「現実的」なのかもしれません。だから、自らが死刑執行人になることを回避しようとすることのほうが、きっとはるかに難しい。その「蟷螂の斧」のような生き方を選ぶのだとしたら次のような姿勢が必要だと思うのですが、私自身立ち竦む思いです。
- 他人の命の優劣を評価したり、ましてそのことで生の中断を進めたり(勧めたり)はしないこと。
- 人生は一回限りのものなのだからいつも生きるに値するものであり、人は自分の人生をできるだけ長く生きる権利を持っているということ。
- 「生きる権利」が奪われている状況にあるかぎり、「死ぬ権利」という言葉を一人歩きさせない(拒む)こと(そして、「生きる権利」はつねに奪われ続けている)。
- 人間をその有用性(社会の役に立つか否か)で評価しないこと。「役に立たない」(有害であることを含む)ことを理由に否定しないこと。
- 障害者でも透析患者でも老人でも、「努力しているのならばその姿は素晴らしい」「世の中の役に立っているのならばその人間は素晴らしい」という、前提付きの肯定と縁を切ること(2016年には「感動ポルノ」という指摘があった)。
- 「人に迷惑をかけないように」ということを、判断の根拠にしないこと(迷惑をかけあうことで人間関係は成り立っている。迷惑をかけるかかけないかに関わらず、人は自分が生きたいように生きることを求めてよいこと)。
- つまり一切の線引きを拒み、どのような生も善であるというところに踏みとどまること 6)。
- そこからは、当然にも経済的問題などが起きてくるはずであるが、それを本質的なこととして斟酌しないこと 7)。
杉田俊介の「あなたの生は意味や無意味を超えて良いものなのであり、自由なのである」(「優性は誰を殺すのか」現代思想44-10)という言葉は、50年前の神谷美恵子の言葉に響き合っています 8)。
「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。・・・ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在の理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。・・・・現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内には見いだしえず、『他者』のなかにのみみいだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。・・・・大きな眼からみれば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるに違いない。」(『生きがいについて』みすず書房1966)
「大きな眼」を地上にしか求められない現代、誰もが「大きな眼」を持ってしまいがちです。棄民を肯定する眼は、「大きな眼」ではなく「傲岸不遜な眼」だとしか私には思えませんが。(2017.01)
※本稿を書くにあたり 現代思想44-10「緊急特集 相模原障害者殺傷事件」2016
を参照しました。
本稿では「障害」という文字を使用しています。
1) その人を、不摂生な生き方をするしかないように「追い込んだ」社会のありよう・社会の責任を無視して、その生き方を選んだ責任を専らその個人に帰してしまうのは「帰属の錯誤」であり、その視点からの批判・検討が必要であることは言うまでもない。
2) 一億総活躍国民会議の民間議員となった菊池桃子は、一億総活躍という言葉に対置して『ソーシャル・インクルージョン』という言葉を提起している。
障害者をめぐる状況はこの50年で大きく変わった。それは障害者運動の忍耐強い活動(闘いの歴史)抜きには語れないことだが、それにもかかわらず差別や人権否定が続いている(あるいは、制度や医学・社会的資源の「充実」とともに強化されている?)。2015年にも茨城県教育委員の障害者否定発言があったし、出生前診断による中絶はすでに一般化し、尊厳死法案が進められようとしている。1970年代初頭、「神奈川青い芝の会」の横塚晃一さんの告発を直接聞いた人間として、私は「母よ、殺すな!」という問いかけに応える宿題から免れていない。(障害者運動の歴史と現在の問題についてまとめたものとしては、例えば 日本自立生活センター「障害者運動のバトンをつなぐ」生活書院2016)
3) 「今、あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる。それって、つらいんじゃないかな? 私達の周りにはね、たくさんの呪いがあるの。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい」(テレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」最終回 百合の言葉)
4) トルストイは「アンナ・カレーニナ」冒頭で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と書いている。「健康はどれも似たものだが、病にはそれぞれの顔がある」と言い換えたのは富永茂樹である(健康論序説1977)。だが棄民の時代となった今日、高齢者も障害者も一つの顔しか持たされていない。
5) 健診は本当に有効なものなのか、人は医学に生活を支配されつくされなければ生きることを許されないのか(生管理である)ということがまず問われるべきである。経済的理由のため(時間がないことを含む)健診を受けられない人の負担が増すという逆説的な事態が生まれかねない。
6) どのような生き方を患者さんが選んでも、その選択を絶対に支持するという医療者の保証があってのインフォームド・コンセントである。「治療はもうしなくてよいです」と言うしかないような、そうしないと非難がましいまなざしに晒されるような「終末期の選択」は、どのように医師が「うまく」説明してもインフォームド・コンセントの名に値しない。そこでは、選択の余地の限られた「裁量権」を恵んでもらっているだけで、それは自主的という名の下の「強制された選択」である。「無益な治療」などという功利主義的言葉や、「尊厳死」「平穏死」と言ったおためごかしの言葉で、患者さんの選択が賤しめられている状況なのだということを見失わないようにしたい。
「『あなたがヘイトスピーチ/クライムにさらされたとき、社会はあなたの側に立つ』というメッセージを社会の側が出すこと、それが『自己決定』が可能な社会にとって、必要な条件の一つだからである。」
(明戸隆浩「「これはヘイトクライムである」の先へ 自己決定が可能な社会のために」 現代思想44-10) 実際に問われるのは個々の人間である。医療の場合であれば、個々の医療者である。「あなたがどのような選択をしても、私はあなたの側に立つ」と医療者が有言実行しないかぎり、インフォームド・コンセントはあり得ない。
7) 変えるべきは原則ではなく、原則が貫けるように社会の仕組みを変えることであると思う。現実的な制約を考えないわけにはいかないが、だからこそ原則を押さえておかないと後退している自分の姿が見えなくなる。
8) この考えは人間だけに当てはまることなのだろうか。食用動物や実験動物(医療の世界では無数の命が抹殺され、医学研究者は喜々としてその成果を報告する)の「生きる権利」をP.シンガーは強く主張する(たとえば「人命の脱神聖化」晃洋書房2007)。シンガーは人間と動物との間の境界線を取り除く代わりに、「理性や感情の有無」に境界線を引き、人間を区分けした。そして、その「パーソン論」と言われる思想こそ相模原の事件を支える思想である。