No.387 パンフレット
コラム目次へ No.385で、OSCEについて私が気になっていることを書きました。でも、「そんなことを言われても」という声が自分の内側からも聞こえてきます。
卒前教育で伝えられることには限りがあるのですし(教えるべきことはどんどん新しくなり、どんどん増え続けてています)、試験で評価出来ることにはさらに限りがあります。教育ではそれぞれの分野についての「案内パンフレット」を示すくらいのことしかできませんし、試験ではその中でも最低限のことができるかどうかの評価しかできません。
医学部で生理学や生化学の実習をしたからといって、生理学者や生化学者になれるわけではありません。「このような考え方で、こうした実験を行って、こうした精度でものを考えて、この学問は成り立っているんだよ」「最低限、こんな世界のあることを知っていてね」「臨床も、こういう基礎の研究の上に成り立っていることを覚えていてね」ということを教えるのが精いっぱいではないでしょうか(最近では選択実習として、希望者は一定期間そうした基礎系の教室でより深い実習をすることができるようになっていますが)。その分野の「入口」を示し、その扉を一瞬開けて見せ、一歩足を踏み入れてもらっているのです。実際にその分野の専門家になる場合や、臨床研究でそうした実験を行う場合、実験のレベルが全く違うことは言うまでもありません。
医療面接演習でもOSCEでも同じです。だから、「試験はそんなものだ。過大に期待されても困る」と言われれば、その通りです。ただ、圧倒的に多くの医学生は臨床医になっていきます(臨床の研究者も臨床医です)。すべての臨床医にとってコミュニケーションはsubspecialityなのであり、演習や試験とはレベルの違うコミュニケーションができなくてはならないはずです(一歩足を踏み入れただけでは足らないのです)。
「そこから先のことは、現場で、個々人の努力で・・・・医学部に入るくらいの人は、それくらいできるでしょ」というわけにはいきません。だからこそ、臨床研修の到達目標(コンピテンス)に「コミュニケーション能力」が入っていて、評価項目も明示してあるのです(明示してあればそれで良いというものではないということはNo.386で書きました)。「卒前から卒後までシームレスな教育・研修」と言われるのもそのためです(「なんでシームレスなんて言わなあかんの、ストッキングでもあるまいし」・・・こんなギャグが通じるのは私たちの世代くらいまででしょうが)。
でも、シームレスという言葉がどこか曖昧模糊とした未来への「先送り」のように聞こえてもしまいます。「臨床の現場」に、患者さんと丁寧にコミュニケーションできる環境があるでしょうか。初期臨床研修の先の「到達目標」は全くあいまいなままです。時間も足りません。的確な診断と素早い処置を学ぶことに、研修医は精一杯です。というより、そのことに喜びを見いだしますので、研修医向けのセミナーもそればかり、良いコミュニケーションのためのセミナーなどの案内はほとんど見ません(たまにあっても、医療者に都合の良いコミュニケーションの取り方についてです)。一人の人の人生の広がり・深さに直面して、それを反芻してかみしめるだけの出会いの「場」が少なくなっています。患者さんの人生について話し合えるほどに、指導医の視野は深まっているでしょうか。最近、複数主治医制が取り入れられつつありますが、コミュニケーションに関するかぎりマイナスも少なくないと思います。看護師のほうが医師より深く患者さんと関わっていますが(中には「反面教師」としかいえない人もいますが、そのことも含めて)、看護師に教えを乞う姿勢でチーム医療に関わっているでしょうか。
「患者の究極のプライバシーに敢然と立ち入る」教育が、学生時代から経験を重ねた医師に至るまで、シームレスに行われても困ります。究極のプライバシーと向き合う仕事だからこそ、覚悟して「無理に話を聞き出さずに待つ・あえて聞かないでおく」コミュニケーション。問いただしたり情報を聞き出したり代弁したり激励するのではなく、ただ「雑談」を重ねる(あるいは、ただそばにいる)コミュニケーション。患者さんの言動をどう受け止めどう対応するか「オロオロ」しながら、そこで患者さんと「一緒に雨に濡れる」コミュニケーション。医療者の情報や思いが伝わらないことを、当たり前にありうることとして引き受けるコミュニケーション。そして、患者さんをひとりぼっちにすることなく、いつも患者さんの心に「希望」を灯せることに行きつくコミュニケーション。そこにこそ医療コミュニケーションの「面目」があるのだと思いますが、OSCEを表紙とする医療コミュニケーションの世界についての「パンフレット」にそこまで書くことは難しいでしょう。そこから先は、パンフレットを片手に先導する人が必要なのです。
「患者がどのような病を患っているかを知るよりも、どのような患者が病を患っているのかを知ることの方がはるかに重要である」(W.オスラー)という言葉は、医療コミュニケーションのための言葉だと思います。 (2022.02)
日下 隼人