No.258 傷に触れてしまう
コラム目次へ 「医療安全とコミュニケーション」についての講演を頼まれることが何度かありました。
良いコミュニケーションは、事故を防ぐと思います(ノンテクニカルスキルという不思議な言葉で語られています)。患者さんや他の医療者と、どんなことでも気楽に話してもらえる関係ができていれば、「危険」に気づいた人が早めに教えてくれます。なにか『おかしなこと』が起きてもすぐ一緒に対応してくれます。逆に、「事故」が起きるまでに良い関係ができていなければ、「事故」についての医療者の説明は耳に入りませんし、その後の関係修復は極めて困難です。
でも、「事故」に関与した経験のある人がこうした話を聞けば、過去の傷が否応なく疼くはずです。話を聴いている周囲の人が自分のことを「コミュニケーションがうまく取れない人なんだ」と見ているような気がしてしまうかもしれません。一度このような経験をすると、その記憶は一生続き、心が疼き続けます。「コンフリクトの大半は、患者-医師間のコミュニケーション不足に原因がある」ということは事実ですが、その言葉にも経験者は傷ついてしまうでしょう。患者さんからの「非難」が続いている間(それがどんなに「的外れ」なものであっても)ずっと重苦しい雲が立ち込めますし、その事態が解決しても、一生心の傷は残り、折に触れて疼きます。裁判ともなれば、そのこと自体に傷つきます。「事故」の責任が医療者にあることは必ずしも多くはありませんが、傷の深さとは相関しません。傷つくのは当の医療者だけでありません。関係者は誰もが多少なりとも傷ついています。そして、実のところ「非難」している人の気持ちも感じとれてしまうので、ますますいたたまれない思いになります。
小児科医になって間もないころ、先輩の医師に「医者としての実力がついたと思うときには、患者の墓標が立っている」という意味のことを言われました。極端なことを言う人でしたから、墓標ばかりではないと思いますが、自分の40年余りを振り返っても、患者さんの心身を傷つけたり診療について遠回りしてしまったような時には、そのことに見合った「力がついていた」のは事実だと思います。主治医が私でなければ患者さんはもっと順調な経過を辿ったことだろうと思った例は少なくありませんし、私のために「不幸な転帰」をとったのではないかと今でも気になっている人も何人かいます。
このような経験は全て記録として残してありますが、わざわざ見直さなくとも折にふれてそのときのことが蘇ってきます。どうして人は、何年も何十年も前のことであっても、繰り返し不意に「恥ずかしい思い出」「後悔する思い出」が蘇るのでしょう。患者さんや医療者から指摘・非難されなくても、誰にも知られていなくても、自分で「しまった」と思った自責の念は一生抱き続きます。「恥じらい」の気持ちはむしろ大きくなってくるようです1)。
医療についてもコミュニケーションについても「しまった」と思った経験のない医療者はほとんどいないはずですから、このような内容の講演には、ほとんどの人を傷つける可能性があります。聞いておられる方の間から、灰色の「靄」が立ちあがっているのでしょうが、それは私には見えていません。言いかたの工夫でどうなるものでもありません。
人は知らないことを学びたいと思って講演会に参加するわけではありませんし、まして責められたいと思って参加することはありません。あるツィートに「プレゼンや講演をいろいろ聞いてきて、うまい人の特徴のひとつに『聞いている人のプライドを刺激する』という要素があることに気づいた。わかりやすいのは『あ、今の話は自分にはわかるけど他の人はわからないかも』というポイントを作ること」とありました。講演を聞く人は「そうそう、自分はかねがね今の話と同じことを考えていた(初めて聞いたことであっても)」「それってある、ある」「そんな人いるよねー。あの人のことだ(私は違うけど)」ということが耳に入るのです。
それなのに、どうしても講演には「あなたたちは、このようなことを知らないでしょう」「こうすべきです」という匂いが付着します。その匂いに不快になるだけで、そのために話が耳に入りにくくなります。講演の中の言葉で、自分の経験したつらい思い出が蘇ればなおさらです。もちろん講演は自分が人に伝えたいこと・言いたいことを話す場ではありますが、それでも聞いている人が主役だということ、自分の話で傷つく人がいるかもしれないということは忘れないようにしたい。「正しい答えは一つしかない、その答えをオレは知っている・・・という姿勢はない。自分はこの歌が好きです。きみはどうかという姿勢です」と鶴見俊輔さんが言っているように。(『随想』太郎次郎社1984) (2016.11)
1) 私は「こんな自分が医者をしていてよいのだろうか」といつも思っていたので、定年になった時ほんとうにほっとした。Danielle Ofriは「患者に害を及ぼすことを恐れる気持ちは医者の生涯を通じて消えることはない」と言う(「医師の感情」医学書院2016)。自覚しているかどうは別にして、自分が人を殺してしまうことがいつでも起こりうる場に身を置いているというストレスに医者はさらされている。患者や周囲の人にとって不愉快な医者の言動も、恐れる気持ちへの「防衛」の表れではないかと考えてみると少し事態が違って見えてくるかもしれない。
「人の命を預かる」という言葉は傲慢だが、確かに否応なく人の命綱を「握らされて」いるために、医療者の「心のゆとり」は絶えず侵食されている。心のゆとりがなければ人の話を聞くことはできないのだから、医療者はいつも他人の話を丁寧には聞けない状況の中を生きている。「話を聴く」ためには大きなエネルギーを要するので、そこでエネルギーを使い果たしてしまうこともありそうだ(そのようなとき、「それで十分だ」と言ってもらえれば、またエネルギーが湧いてくると思う)。
「先生のお仕事って大変ですね」と言われても、「このきつさは当事者にしかわからない」と思うので、医者はあいまいな作り笑いで応じるしかない。「先生のお仕事が大変なことはよくわかりますが・・・」と言われたとたん、「わかるはずもないのに」と思うので、それ以後の言葉を反発しながら聞くことになる。そうなると、あとでいくらエネルギーの源を送ってもらっても受け取れない。
「医者はちっとも患者の気持ちをわかってくれない」と患者は思うけれど、医者は「患者にはどうせ医者の気持ちはわからない」と思う。「医者の大変さなど知りようがないし、わからない。でも、私の気持ちを聞いて」という思いの患者と、「患者の気持ちなんかわかるはずがないけど、聞くだけ聞いてみよう」という思いの医者。お互いが「わかりえない」同士の付き合いだということを自覚した患者と医者とがなんとか付き合ってみようと一歩踏み出すところから、コミュニケーションが深まるのではないだろうか。