No.414 人生の最後にワガママをいう機会??
コラム目次へ 「ある自治体のACP啓発イベントの講師は、ACPを「人生の最後にワガママを言う機会だ」と参加者に語りかけた」という事例を児玉真美さんが書いていました(『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書2023)。もちろん、児玉さんはこの事例を好意的に紹介しているわけではありません。
こうした言葉でシロウトを「説得」しようとする姿勢を、鈍感と言うべきか、傲慢と言うべきか。「ワガママ」という、元来否定的な意味で用いられる言葉を安易に使ってしまう無神経さも(もちろん、肯定的な意味で使うことも可能です)。
人生の最後だからワガママが許されるのでしょうか。「最後だから」とワガママを言いたい人は、多いわけではないのではないでしょうか。それまでの過程で、自分の思い/願いが十分に伝えられ、その願いがそれなりに叶えられてきていたら、最期の場面でまで「ワガママ」を言う必要はないでしょう。
人生の最後の場面だからワガママを言って良いということは、最後にしか認められないということです。病気になったら、いつでも自分の願いを言いたいし、どのような願いを言っても良いはずです。それが患者の権利です。
これまで患者さんの願いを、「ワガママだ」と言って押しとどめたり非難したりしてきたくせに、「無知だから「おかしな」ことを言っている」などと「説得」してきたくせに、最後になって「何でも言って下さい」と、そしてまたしても「ワガママ」という言葉で勧めるのはおかしくないですか。
これまでなにかといえば「患者のワガママ」と言ってきたことを、「最後のワガママ」を認めることで帳消しにされたくはありません。
最後の場面で言って良い「ワガママ」は、医者の勧める死を受け容れるという範囲内でのことではないでしょうか(生き延びるという方向の選択肢が閉じられた「適応的選好形成」です)。死刑執行の前に「好物を食べて良いよ」と言うけれど、「死刑は嫌だ」は認めてもらえないようなものです。
医者が勧める/許容できる範囲の選択と合致しない選択肢を選ぼうとすれば、また「ワガママ」と言われ、説得されることでしょう。
「患者が医療の主人公」と言ったのはCOMLの故辻本好子さんでした。この言葉は、医療の在り方を一人の人間として患者の側から問う言葉です。
その言葉を医療者側が言い出したとたん、患者は医療/社会の論理に取り囲まれ、医療の設定する枠組みの中で、人生を選択することを自己決定と言われてしまいます。
「無益な治療」「医療費の無駄遣い」「社会的貢献度」「生きている価値」などという言葉が深く問われないまま患者の周りを飛び交い、決定を迫ります。障害者、高齢者、難病患者などを「社会のお荷物」だとする言説がはびこる社会です。
そうである限り、最後の場面での“自己決定”が「患者家族の意向に反しても一方的に治療を差し控えたり中断する権限を医療者に与える」(児玉)ことになりかねません。
「ワガママを言って良いんだよ」と“おためごかし”のもの言いは、「患者が医療の主人公」という言葉とは正反対のものです。「患者が医療の主人公」という言葉を、医療者は患者さんから奪ってはいけないのです。
日下 隼人