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No.432 尊厳死と社会保険料給付抑制/坂道を滑り落ちるように

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 「子どもたち(周囲の人)に迷惑をかけたくないから死にたい」という「死の選択」は、「世間に迷惑をかけたくない」につながります。「世間に迷惑をかける」「社会の重荷」「社会の役に立たない」という価値観は、尊厳死/安楽死の対象をいくらでも広げることになります、坂道を滑り落ちるように。
 重い障害を抱えている人、多くの先天異常疾患/それも含めての「医療的ケア児」、後天的な病気で身体が動かなくなった人、精神障害者、次第に身体が維持できなくなる/精神が保てなくなる病気の人、ついには(身体的には何の問題も無くても)人生に希望を持てなくなって自殺を強く望む人・・・・、と“すべり坂”をどこかで止めることは、論理的にも心情的にも難しい。「それは極論だ、そんな「ひどい」ことにはならない」と言う人がいるとしたら、どこまでなら「ひどくない」という「線引き」を「誰が」するというのでしょう。

 「終末期はここからだと定義して、これを充たした人は死んでもよいという基準を決めた途端に、その基準はどんどん変えられます。」「尊厳死と安楽死は、死を早めてもよいとした途端に同じになります。」「緩和ケアとは・・・「死にいたる病であっても病気とともに生きていくこと」を肯定する過程をサポートするもの・・・」(中島孝「QOLと緩和ケアの奪還」現代思想 特集「医療崩壊――生命をめぐるエコノミー」36-2 2008)

 “美しい”言葉で語られるたくさんの死と引き換えなければ維持できない社会は健全なものではないという思いはきっと誰もが抱いています(だからこそ、いろいろな“理屈”が言われるのです)。
 そのような社会は、その根底にあるべき人間への信頼を穿っていくのではないでしょうか。人の生命の危機に携わる医師が、その人の生命を短くするかもしれない人でもあるという状況が肯定されれば 1)患者と医師との信頼関係は根底から“ひび”が入っていくと思います 2)
 医師からも看護師からも、繰り返し「延命のデメリット」を語られ続けることで(障害者に対しては「生きていることのデメリット」さえ語られかねない)追い込まれた患者・家族が「延命を望まない」という選択をしたときに、それを「自己決定」というのならば「自己決定」という言葉を貶めています。(2025.02)

1) 「医学的妥当性の絶対的価値観を『死は敗北である』『生命の短縮を避けるべきである』と、極めて古典的な概念に設定」して、「いかなる医学的介入であっても“患者の死期を確実に早める行為(多くの治療制限が該当する)は医学的妥当性を欠く”とまずは判断する」「『医学的無益』という概念、言葉は、・・・現場での使用は避けることを強く推奨します」(兼児敏浩編著『“やさしい”臨床倫理フレームワーク』メディカ出版2018)。この後には「やむを得ない場合」について書かれてもいるのですが、それでもこうした主張に「死は敗北である」という言葉が「過剰医療」「非人間的医療」の主犯であるかのような言説に対する反批判を読み取ることはできると思います。

2) それ以前に、現場の医療の質を下げます。尊厳死/安楽死が広まる時、いくつかの病態/疾患については医師の研鑽の機会が奪われます。そのために、以前なら助かるはずの病気さえ、医師の力不足のために助けられなくなるということがあります。
 児玉真美さんは以前からこのことを指摘しています。「安楽死・・・合法化後にオランダの緩和ケアが崩壊した・・・」「安楽死が合法化された国に、25歳以上の脳損傷を治療する医療機関が存在しない。」そして「“死の自己決定権”とは・・・「にもかかわらず生きる」という方向への“自己決定”を認めず、「死ぬ」という一方向にしか認められることのない“自己決定権”ではないのか」とも書いています。(「「ポスト・ヒポクラテス医療」が向かう先」現代思想 特集「尊厳死は誰のものか」52-7 2012)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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