No.407 無念さとつきあう/シーシュポスのように
コラム目次へ 「「患者さんの死は医療の敗北である」という考えは誤っていた(いる)」という言葉をしばしば耳にします(No.326にも書きました)。病院医療よりも在宅医療を推進する場合、保健医療の在り方を問い返す場合、「過剰治療」と言われる医療を批判する場合などに言われがちです。
でも、この言葉で今日の医療や医師の姿勢を批判してしまうのは、いささか薄っぺらいという気がします。医者に限らず人は、連敗するしかないことが嫌なのでしょうか。いつも「敗北」という形で終わるしかないからこそ、卵を抱くように一つひとつの付き合いを丁寧に積み重ねていく、それが医者の仕事ではないでしょうか。
『シーシュポスの神話』(カミュ/新潮文庫1969)で、死の神タナトスを欺いたシーシュポスは、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けるのですが、何度山頂に岩を運んでも、その瞬間に岩は転がり落ちてしまいます 1)。
「負け」は負けです。でも、「負け方」はいつも異なります。岩の持ち上げ方/置き方は、一度として同じではありません。それは、玉砕戦に突き進むことや「やけっぱち」になることとは正反対です。
「患者さんの死を敗北だ」と認め、そのことに「虚しさ」を感じながら、そのつど「はじめて」のこととしてせいいっぱい付き合っていく(丁寧に持ち上げていく)という人生をひたむきに生きる存在が、患者さんのそばに居ることには意味があると思います。シーシュポスは、だんだん投げやりになったわけではありません。下に落ちた岩に向かって山を下りていくシーシュポスの姿を、小児がんの子どもたちと関わっていた頃、私は自分と重ねあわせていました。
人が病むことは、「無念」なことです。たとえ良くなる病気であれ、この「思いがけない出来事」のため人生は大きく軌道修正を迫られます。医療とは、人の「無念さ」と付き合う仕事なのです。医者が「負け戦さの無念」から逃げれば、患者さんの「無念さ」を支えていくことはできません。
2020年、NHK土曜ドラマで放映された「心の傷を癒すということ」で、39歳の若さで亡くなった精神科医/安克昌さんを演じたのは柄本佑でしたが、その最終回で彼は「心のケアって何かわかった だれもひとりぼっちにさせへんてことや」(脚本家/桑原亮子さんの創作)と言います(No.346にも書きました)。「すべてのケア」に当てはまる言葉です。
私たちにできることは、ただそばに佇むことしかないかもしれません。それでも、徒手空拳のままその場を離れないで居続けるのが医療者の仕事です。
人の「病むこと、そして死」はどこまでいっても〈不条理〉です。その不条理さを多少なりとも患者さんと共に引き受けることにこそ、医療者のレーゾンデートル(存在意義)があると思います。「死は医療の敗北ではない」などと自分を甘やかすべきではないのだと思っています。(2023.08)
1) カミュはここで、人は皆いずれ死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描いていると言われます。
「ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。(中略)頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」
日下 隼人