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No.380 理解力が低い

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 私が小児科の医局に入った時にも、ささやかながらオリエンテーションがありました。そこで、患者さんに病気を説明することについて「理解力の低い親がいるから、配慮して説明するように」と言われました。認知機能には個人差があるのですから、このような言い方にも一理あるとは思いますし、「配慮する」ように指導されたのですから、あながち不適当とは言えません。それでも、「責任」を親に押し付けるような感じがして、私はその言葉にひっかかってしまいました。それ以来、48年間ずっとひっかかっています。
 病気になった時、患者(家族)は、医学的知識について「理解力が低い」のが普通です。
 医者の説明を聞いた時、まず言葉の意味が分かりません。聞いたこともないような言葉が、次々と襲いかかってきます。言葉を「翻訳」して解説されても、その言葉がまた難しい。難しい言葉が溢れ出るように迫ってくるのですから、言葉の意味を理解しようと「息せき切って走る」のが精いっぱいで、その言葉の連なりがどのようなことを意味しているのか(説明されていることの意味=疾患についての全体像)を把握するのは、至難の業です。医者の言葉は、自分の知識フレームに直ちには嵌りません。そのために心が落ち着かず、それゆえ話に耳を傾けることができないという循環に陥ります。子どもが病気である親の場合には、思いの複雑さはさらに増し混乱は大きくなるということを、小児科医は否応なく経験します。
 「あんなに丁寧に説明したのに」と医者は思います。でも、どんなに丁寧な説明も、一回では足りません。一回目の説明を聞いた時には(患者さんは質問もしていますが 1))、言葉の意味が分かりませんし、分かっても「そうなのかなあ」と他人事のようです。二回目の説明で、「やっぱりそうなのか」と少しだけ「納得」し、自分の知識/思考フレームとのすり合わせが始まります。三回目以降、フレームが少しずつまとまりだしますが(そのフレームはその人独自のもので、医者のフレームとは異なります)、それでも「誰か違うことを言わないかな」と思い、何人もの医療者に尋ねたり、インターネットなどで情報収集したりします(そこは様々な情報のるつぼです)。そのうえで、自分のフレームを(自分が理解した範囲での)医者のフレームに合わせようとエネルギーを使う人もいれば、自分のフレームをなるべく維持しようとエネルギーを使う人もいます。どちらの場合でも、エネルギーを使うのは患者の方です 2)。「フレームを柔らかくしてみよう」「フレームを変えてみよう」「フレームから(楽しく)脱出してみよう」3) とは、なかなか医者は考えてくれません。ACPも、医療者主導のフレームとして機能する側面のほうが大きいと思います。

 難しい言葉は、恐怖を増します。恐怖はますます言葉を理解しにくくしますし、しばしば、言葉から逃避して身を護る方向に人を追いやります(誰にでも起きる、避けがたい反応です)。人は自分が聞きたいことしか耳に入れない(話を自分に都合よく聞いてしまう)ものです。誰でも、自分に都合の良い話を聞きたいのです。自分の状況が「わからない」という状態は不安ですから、患者さんはなんとか自分なりにわかる「説明=物語」を作り上げて納得しようと急ぎます。医者の説明することを正確に理解することではなく、自分が少しでも落ち着ける話を「見つける」ことが優先されます。医者の説明を聞きながら、その話を自分が納得できる・自分が受け容れやすい・自分に都合の良い「説明=物語」に構成し直そうとします。そのために、自分に都合の良い言葉、自分が聞きたい言葉だけが耳に止まります。「自分はきっと癌だ」と疑っている人は「可能性は5%くらいでしょう」と言われても「やっぱり癌だ」と思います。「自分は癌ではない(といいな)」と思っている人は「まずその可能性を否定するために検査しておきましょう」と言われても「きっと違う」と思います。インターネットやテレビの健康番組、友人・知人の話からも、聞きたい言葉だけを拾い集めます(しばしば、こちらのほうが心に響きます)。聞きたくない言葉は聞かないようにするか、軽く聞き流します。医者の話を聞いた後、患者さんはそこで受けた印象をもとに、医者の話を反芻し、自分の「構え」を立て直そうとします。医者の説明は、面接後に、患者さんの中で「熟成」していくのです。「面接とは面接時間以外の23時間(患者のなかで)はたらいているものである」(H.S.サリヴァン)。
 こうして自分が作り上げた「説明=物語」のお蔭でかろうじて患者さんは立っていられるのですが、定着しつつある「説明=物語」は医者の説明とズレたものにならざるをえません。ズレていることが分かった医者は「患者さんの勘違いを正そう」とします。けれども、患者さんの「物語」は、自分が耐えられるように、自分の中で湧き上がるさまざまな思いと折り合いをつける苦労を重ねてやっとたどりついたものですから、それを揺すぶられることは不快以外のなにものでもありません。事細かく指摘されることには怒りさえ覚えます。患者さんの「理解していること」を聞いて、医者は「自分はそんなふうに言っていないのに」と驚きます。「何度言ってもわからない」「こんなに丁寧に説明したのに」と患者さんのことを困った人だと思いがちです。でも、「困った人」ではなく「困っている人」だから、そうなってしまうのです。(2021.10)

1) 患者さんの質問は、医者から見ればたいてい「的外れ」「本質とは関係ない些細なことについて」である。患者さんの思考フレームは医者のフレームとは違っているし、そもそも、医者の話を冷静に聞いていられないので、質問は的から外れるばかりである。的から外れた質問は、たいてい医者から軽くあしらわれてしまうし、丁寧に答えられたとしてもすれ違うばかりである。

2) ふだんの暮らしの中での対等な人間関係であれば、言葉を介して相手の言い方からその意向を探り、それに合わせて自分の言い方を変えたりして、会話を進めていくこともできるだろう。だが医療の言葉については、その奥行きや多面性を見ることは至難の業だし、言葉から延びる様々な意味やイメージ等の連関は捉えられない。同じトーンで発せられた同じ言葉でも文脈次第で異なる表情や響きをもって立ち現われてくると言われるが、その文脈自体が見えない。暮らしの言葉を介していないので相手の意向は読み取れないし、だから自分の言い方を変えていくこともできない。せいぜい自分の手の届く範囲で医者の意向を想像するしかなく、ほとんどの場合ズレている。だから、医療の言葉を通してでは、患者と医者とは「分かり合えない」。分かり合うために必要なのは、医療のフレームから外れた言葉であり、非言語である。「言葉は生活の流れのなかではじめて意味を持つものであり、言葉を発することそれ自体が我々の生活のなかに組み込まれた振る舞いの一種である」(古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社2017)のだから、医者に患者さんの生活が視野に入らなければ、そしてその地平で言葉のやりとりに徹しなければこうしたやりとりは成り立ちようがない。それでも、病気の人にとっては、どんな言葉もその心を表現するには貧しすぎる。

3) 患者さんの思いに「乗ってみて」、その思いを内側から修正していくことこそが共感的姿勢である。そのためには患者さんの思いを「聴く」ことが欠かせない。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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