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No.381 「特権は自動ドアだ」

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 先だってのオリンピックのコンセプトは「多様性と調和」だったらしい 1)。でも、「多様性」と「調和」とは共存できるものでしょうか。人の多様性を最大限尊重していくとき、いろいろなところでギクシャクしたことが起きてしまうはずです。「調和」の尊重ということが、自分の意見を控えめにして「空気を読んで」「波風立たなくする」ことであるとするこの国では、「調和」の言葉の下に「多様性」が抑えられる=「我慢を強いられる」ことのほうがずっと多くなってしまいます。隣近所との付き合いはその典型です。そこで自己主張すればするほど、「変わった人」「困った人」扱いされてしまいますし、たいていの人はそうならないように気を配ります。
 「従属集団の人々は、特権階級に好まれるような性格や心理―例えば従順さ、強い依存心、素直な態度を身に着けるように促される」(ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして』上智大学出版2017)。「調和(インクルージョン)」は抑圧概念になる危険性のほうが多く、そこで語られる「多様性」とは「多様性」の消費=多数派による「多様性」(少数派/特権を奪われた人たちの生きる意味・生そのもの)の簒奪になってしまう可能性のほうがずっと高い 2)。「『みんなちがって、みんないい』と言っているのは誰なのか」と、その「上から目線」について伊藤潤一郎は問いかけています(「誰でもよいあなたへ」群像2021年11月号)。
 多様性の尊重とは、「いろいろな人が居ますね。お互いに認め合いましょうね」ということではありません。多様性を語る/尊重するためにまず必要なのは「特権を持つ多数派の自覚」(林香里東大教授 朝日新聞2021.7.29)です。出口真紀子さん(上智大学教授)は「特権は自動ドアだ」と言います。マジョリティ側はあまりにも自然にいつも自動ドアが開いてくれるので、自動ドアの存在すら見えなくなっています。持っている特権の存在に気づきにくいため、マジョリティ側は自分に特権があるとは思っておらず、こうした状況が「当たり前」「ふつう」だと思って生きています 3)。そのことを指摘する人のことを「変な人」「ひねくれた人」などと思います。
 多様性を尊重するということは、多数派/特権を持つ人間にとっては、自らが自由に通り抜けている自動ドアの存在に気づき、誰にもそのドアが自動的に開くようにシステムを作り替えることです。それは、闘いです。病者、障碍者と関わる医療者は、自動ドアを通り抜けている自分の「異常さ」と対面しなければプロフェッショナルの名に値しません。「いのちだけは平等だ」と徳田虎雄は言いましたが、この平等には「自動的に開かないドア」に阻まれている人をとりまくあらゆる排除と差別に抗していく「覚悟」なしにはたどり着かないのです。

 ここまで書いてきたところで、真鍋淑郎さんがノーベル物理学賞を受賞しました。日本を出た理由を問われて「日本では人々はいつも他人を邪魔しないようお互いに気遣っています。彼らはとても調和的な関係を作っています。日本人が仲がいいのはそれが主な理由です。ほかの人のことを考え、邪魔になることをしないようにします。日本で『はい』『いいえ』と答える形の質問があるとき、『はい』は必ずしも『はい』を意味しません。『いいえ』の可能性もあります。なぜそう言うかというと、彼らは他人の気持ちを傷つけたくないからです。だから他人を邪魔するようなことをしたくないのです 4)。」「アメリカでは自分のしたいようにできます。他人がどう感じるかも気にする必要がありません。・・・それが日本に帰りたくない一つの理由です。なぜなら、私は他の人と調和的に生活することができないからです」と答えました。自動的に開かないドアは、至る所にあるのです。(2021.11)

1) オリンピック組織委参与の夏野剛の「クソなピアノ発表会なんて五輪に比べればどうでもいい。・・・(それを)一緒にするアホな国民感情」という発言や、開閉会式を統括した組織委日置貴之の「大会の基本コンセプト(「ダイバーシティー&インクルージョン」について)の日本語は用意していない。世界に分かってもらいたいということで英語のみになった」という発言には、多様性を心から尊重したいという姿勢は全く感じられない。開会式や閉会式が、「多様性」らしきものを表面的になぞっただけだったのもむべなるかなである。

2) 「ともあれ、パラリンピックが様々な人生と出会う場になっているということは、いいことと思う。けれど、パラリンピックで障がい者のことを知ろうと思っても、それは無理だ。なぜなら障がいのある人の大多数は、パラリンピックと無縁な生活をしている。健常者の多くがオリンピックと無縁に生活しているのと同じように。なので、『パラリンピックを見ても、障がい者のことはわからない』という基本を押さえておいてほしい。何度も言うが、オリンピックを見ても、健常者のことがわからないのと同じように。」(あるツィッターから)

3) もちろん劣位にある人と特権のある人に、世の中が二分されているわけではない。女性は、多数派だが特権を奪われている存在である。前掲のグッドマンが言うように「ある領域では特権を持っていたとしても、その他の領域で劣位である」存在を生きている人が大多数だろう。だが、しばしば多くの人は自らの特権的な立場の方に足場を置くことでアイデンティティを保ち、その領域での劣位の人を差別することでアイデンティティを強化しがちである(「医者になったけれど、勉強はできない」と思うよりも「勉強はできなかったけれど、医者だ」と思うように)。
 「ポストフォーディズムの現在においては、恐怖は労働の全過程に常に現前している。周辺的労働者や失業者といった『負け組』はもちろん、『勝ち組』もうかうかしていられない。ついこのあいだ勝ち取った特権的地位はつねに『新人』に脅かされる。周期的イノベーションに・・・ついていけなかったら終身雇用から契約社員へ格下げだ・・・。・・・こうしたインセキュリティの恐怖、不安は、ひとをますます従属へ、ボス(システム)に愛されたいという欲求へ駆り立てる。・・・・だから見て(監視して)ほしい、もっと詳細に探ってほしい、評価してほしい、つねにチェックしてほしい・・・・。不安や恐怖はここでは、そうした状況への抵抗よりも、・・・・・絶え間のない管理への要請として現れるのだ。」「『社会』はつねに、深い分裂を維持することで統治されている(エリック・アリエーズ『諸戦争と資本』)」(酒井隆史『自由論  現在性の系譜学』河出文庫2019)

4) これは、日本人の他者への信頼度が低いからかもしれない。社会心理学者の山岸俊男さんは「日本人がアメリカ人に比して一般的信頼(デフォルトで他者を信用する)が低い」と指摘している。(『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』中公新書1999)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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