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No.362 模擬患者のインセンティブ

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 畑尾先生を班長とするOSCEの国家試験への導入を検討する研究班に参加させていただいたのは、もう20年以上も前のことです。それから25年経って、Post clinical clerkship OSCE(臨床実習後OSCE)が国家試験に準じるものとして行われることになりそうです。変化には時間がかかるのです。
 あの時、私が「医療面接演習がめざしている良いコミュニケーションのための教育は、試験とはなじまないのではないですか?」と尋ねたところ、畑尾先生は「日本では試験をしないと、いつまでも変わらないから」と言われました。実際に、共用試験OSCEが必修になって、若い医師の面接態度はずいぶん変わりました。
 でも、「試験さえ通れば、それでよい」となるのもこの国の常だということは、畑尾先生の予測を超えていたのかもしれません。「試験さえ通れば、それで十分(それ以上の教育は必要ない)」「現実は違うのだから、試験の時だけこのポイント通りにすれば、それだけで良い」と思う人が(学生にも指導する側にも)少なくありません。試験(OSCE)と良い医者を育てることとの間に断絶があることは「当然」ですが、教育する側も試験をすること自体を自己目的化してしまいがちです。コミュニケーション教育は、OSCEだけで十分と考える人が出てきても不思議ではありません。実際、評価者である医師が自分の診療場面ではOSCEで求められていることを行っていないことは少なくありません。学生たちは誰もが、学生実習で「あれでは患者さんは言いたいことも言えないだろう」「あれでは患者さんにはわからないだろう」と感じる医師の説明を見聞きしています。反面教師になってくれれば良いのですが、ただのHidden Curriculumにしかなっていないかもしれません。
 大学の教員は、たいてい小学校から大学までずっと「優等生」の人なので、試験の客観性をとても気にします。模擬患者のばらつきが許容できないようです(試験だから、ある程度はやむをえないことですが)。それで、OSCEのための標準模擬患者の資格認定制度が進められることになるようです。でも、パターン化された応答が、どの模擬患者さんでも同じようにそつなくこなせることが目的であるとしたら、それはSPのロボット化でもあります。それならば、AIのほうがずっと上手にこなすのではないでしょうか。2019年の医学教育学会で、「SPはAIでも良いのではないか」という発言があったことはNo.332で書きましたが、OSCEに関するかぎりむしろ正鵠を射ていると言うべきでしょうか。
 それでも人間がやることに意味があるとしたら、それは模擬患者が身体診察まで請け負うからということになるのでしょうか(そのように考えていると明言する医学教育者もいます) 1)、人と直接会話することが医学教育に欠かせないからでしょうか 2)。もし前者ならば、学生レベルでの身体診察では、患者に「さわる」ことはできても、そのことを通して人に「ふれる」ことまでを教育することは難しそうです。OSCEという特殊な場、限られた時間でそのことを評価することもできません。「ふれる」思いの欠けた「さわる」だけの診察は、患者をモノ扱いする教育につながりかねません 3) 4)。(「ふれる」についてはNo.268で書きました)
 標準模擬患者としての資格が認定されることで、模擬患者の「地位が向上する」「レベルアップする」「インセンティブが上がる」などという意見が模擬患者から出されることもあるとのことです。でも、いちばんインセンティブが上がるのは、「医療面接演習が楽しい」ということではないでしょうか。「自由な」やりとりのできる演習を通して得られる「コミュニケーションすることの楽しさ」「ひととの出会いを感じられる楽しさ」こそが、医療面接演習の醍醐味だと思います。「やってて良かった」です。その楽しさはOSCEには希薄なのですから、模擬患者のインセンティブを上げることは、資格よりも普通の(OSCE以外の)医療面接演習の機会が保障されることです。私たちが模擬患者活動を始めたときの「患者と医療者との良い関係を作ることに役立ちたい」という願いにOSCEは応えられているのだろうかと、あらためて考え直す時期にきていると感じます。ある模擬患者さんは「自分が患者で受診する時には、まず自分から挨拶するのが当たり前と思っているので、相手の挨拶を待つ(OSCEのやり方)というのは、どうしてもなじめない」と言われました。こうした「普通」の人としての感覚こそが、大切にされなければならないと思います。社会学者の岸政彦は「幻想を抱く人は、すぐに幻滅する。幻想を持たずに希望を持つ」と言い(NHK100分de名著「ブルデュー ディスタンクシオン」テキスト)、アランは「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである」(アラン「幸福論」) と言っています。その言葉に問われているのは私たちです。「地位の向上」や権威筋からの承認 5) よりもだいじなものがあるはずです。 (2021.01)

1) 「医療面接から身体診察まで、一人の人で行う方が自然で良い」と言われることがありますが、これは自然なことではありません。その模擬患者さんのからだは面接での「訴え」に対応したものではありませんし、症候を「演技」しても「わざとらしい」だけです(「わざとらしさ」を感じさせない見事な演技には、その見事さに心が奪われ、それだけしか記憶に残りません)。訴えからあるはずの身体所見が無い(しばしば若くない模擬患者さんたちは、別の身体症状や治療の痕跡を持っている)ことで、受験者はいっそう混乱します。面接の模擬患者と身体診察の模擬患者が交代するのが不自然・面倒と言われますが、まだそのほうが受験者には頭の切り替えができます。

2) 「AIの限界は『身体』を持っていない点にある」ことは確かです。「生身の人間」の迫力(普通に人間が目の前にいるというだけのことです)あっての医療面接です。「表情や所作といった身体性の次元も含めて、ニュアンスの形で・・・・・・、なんとか互いにコミュニケーションできている」のですから。(「」内は、斎藤環・與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』新潮選書2020 から)

3) 「さわる」にとどまる限り、(模擬)患者は対等な人間としては扱われていません。一方では模擬患者のAI化、他方では「さわることのできる」道具化は模擬患者を「非人間化」していることですから、そこに居心地の悪さを感じている模擬患者さんもおられるのではないでしょうか。模擬患者活動の初志とずいぶんかけはなれてきてしまってはいないでしょうか。模擬患者の善意に甘え、模擬患者の思いとかけ離れた教育は、本当の患者さんの思いともかけ離れていきかねないのです。

4) 多数の人の前に身体を晒す人が、それを見る人たちに、心の底から尊敬されることはありません。口での謝意とは裏腹に、「そんな(恥ずかしい)ことをする人」と心中では思われているのではないでしょうか。医師の妻や医学生の母親がそうすると言えば、その夫や子どもは「そんなことまでしなくとも」と言うでしょう。現実の患者にとって、医療者の前に裸体(性器などでなくとも)をさらすことも、大きな口を開けることさえも、羞恥を伴う不快なことでしかありません。ICUで加療されている裸体のテレビ画像を見るとき、私たちが共感的羞恥の念を抱いてしまうのも、それゆえです。学生たちに伝えられるべきはそのことなのですが、このようなOSCEで伝えられるでしょうか。

5) NPOの活動をしていた人や体制批判的な活動をしていた人たちが、政府などの公的な機関の仕事に関わるようになると(○○委員や諮問会議メンバーなど)、なんだか偉くなったような気がするらしく、だんだん「体制側」になってしまいがちです。人の心は意図的に重しを確保していなければすぐにふわふわと舞い上がってしまう気球のようなものだと私は思っていますが、チャールズ・テイラーの、人はいつも「あまりにも簡単に滑り落ちていってしまう傾向があるすべり坂」(『〈ほんもの〉という倫理』産業図書2004)を生きているのだという言葉も同じことを言っていると思います。こちらのことを肩書で評価する人は少なくありませんが、そのような人とは本気では付き合わないと決めてしまえば良いだけのことなのですが、なかなかそうもいかないようです。
 そして、体制(自民党だけのことではありません)というものは、常に反体制を取り込み、無毒化し、自分の糧として生き延びていきます。地域医療や在宅医療に真摯に取り組んでいた人たちの実践が、医療費削減、病床削減、終末期医療の手控えといったことに取り込まれてしまうのもその例です※。そこに「医学的無益」※※などという言葉も滑り込んできます。

※ 徳永進さんのように、取り込まれない姿勢を保ち続けている人はいます。彼の淡々とした、しばしば「飄々とした」語り口は、「取り込まれない」ための「戦術」であるという気がします。(『「いのち」の現場でとまどう』岩波書店2019)そんなふうにしか「抵抗」できないほど、このシステムに抵抗するのは厄介なことなのかもしれません。

※※ 『“やさしい”臨床倫理フレームワーク』(メディカ出版2018)には、「医学的妥当性の絶対的価値観を『死は敗北である』『生命の短縮を避けるべきである』と、極めて古典的な概念に設定」して、「いかなる医学的介入であっても“患者の死期を確実に早める行為(多くの治療制限が該当する)は医学的妥当性を欠く”とまずは判断する」「『医学的無益』という概念、言葉は、・・・現場での使用は避けることを強く推奨します」と書かれています。と言いながら、その上で「やむを得ない場合」について書かれているのですが、それでもこうした主張に「死は敗北である」(この言葉についてはNo.326で触れました)という言葉が「過剰医療」「非人間的医療」の主犯であるかのような言説に対する反批判を読み取ることもできると思います。この主張がコロナ後にも生き続けるでしょうか、それとも「生の選別」が肯定され推進されてしまうのでしょうか、いま私たちはその岐路にも立っています。


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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