メインビジュアル

No.371 希望と不安と

コラム目次へ

 今年も武蔵野赤十字病院の研修医オリエンテーションをお手伝いさせていただくことができました。毎年いくつかのコマを担当するのですが、その一つに「身近な医療倫理について」のディスカッションがあります(学生実習や自分の受診経験から「倫理的にいかがなものか」と感じたことについて報告しあい、話し合ってもらいます)。
 「患者さんの訴えを聞き流す」、「患者さんの訴えに取り合わない」、「患者さんのいないところで、医療スタッフがその人のことを悪く言っていた」、「『どうしてもっと早く来なかった』と患者さんを責める」、「PCから目を離さない」、「母親が救急受診したところ、寝起きだったのか、当直医がとても機嫌悪く対応した」、「アル中の患者に『戒めだ』として太い針で点滴した」、「がんを告知した後の、患者さんのパニックに対応しない」、「抗がん剤による脱毛について『また、生えてきますからね』と軽く説明した」、「回診時の症例提示を、その患者さんのベッドサイドで行った」など、いろいろな医師の姿を報告してくれます。この研修を20年以上続けていますが、報告されることにはあまり変わりがありません。
 でも、この20年の間に、大学ではコミュニケーション教育がずいぶん行われるようになりました。そのためもあるのでしょうか、「患者さんの話をよく聞き、丁寧に説明する」医者は、間違いなくとても増えてきています。「みんながみんな」というわけにはいかないのですから同じような報告はこれからも続くでしょうし、「丁寧に説明はするけれど、患者さんの話はあまり聞かない」医者もいまだに居ることはいます。それでも、これまでの「変化」には未来への希望が確かにあります(変化は教育の成果でもあるでしょうが、時代の流れのほうが大きな役割を果たしていると思います)。

 E.レヴィナスは、倫理とは、(自分という)世界の外部から到来する他者との関係そのものだと言い、その他者を特徴づけるものは「顔」だと言います。
 「他者は、私が気づいたときにはすでに私に呼びかけてしまっている。他者はその裸形の顔において、呼びかけている。隣人とは、顔において顕現する他者にほかならない。・・・顔とは、目に見える表情というより、むしろ声が私に呼びかける出来事のことである。あるいは顔という出来事を通して初めて生じるのが他者であり、対人関係であるといったほうが正しい。顔は二人のあいだの対人関係に先立つ。・・・顔は知覚される対象ではない。そうではなく、呼びかけられるという経験であり、呼びかけられることで応答してしまうという傾向性のことである。・・・・言語とは私から他者への贈与であり、他者から私への教えである。この言語による呼びかけが『顔』として生起する。・・・こちらに向かってくる、あるいは呼びかけてくる、という性格は顔の大きな特徴である。」(熊野純彦『レヴィナス入門』ちくま新書1999、合田正人『レヴィナスを読む』ちくま学芸文庫2011、村上靖彦『レヴィナス』河出書房新社2012を、私なりにまとめました。)
 とすれば、マスクで半分以上顔を隠してしか人と相対することができない今、私たちは倫理的な関りからどんどん遠ざかりつつあるのではないでしょうか。ここには、未来への不安があります。(2021.06)


日下 隼人

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

● コラムNo.230 までは、東京SP研究会ウェブサイトにアクセスします。