No.274 教育の体質
コラム目次へ 医師や医学生の性犯罪の報道に接するとがっかりします。一人の人間の生をかけがえのないものとして尊重することが医療なのですから、その正反対のことをしてしまう人が居ることに内心忸怩たるものがあります。とはいえ、毎年1万名近くの医師が誕生するのですから、そして「性衝動」自体は誰もが持っているのですから、それを「うまく」コントロールできない人の居ることは避けらないことでしょう。
性犯罪は「人として不適切」な行為ですが、「人として不適切」と言うだけでよいのです。それをことさら「医師だから厳しい倫理性が求められる」と言ってしまうことは医療・医師の神聖化につながり、結果として生権力を支えてしまいます。逆に言えば、「人間として適切だが、医者として不適切」というようなものはないのです。ちなみに、このような事例は私が若いころから耳にしていますから、「人数が増えたから」ということだけではありません。
「医療面接のできないような学生がそのようなことをするのではないか」というSPさんがおられたのですが、医療面接がうまくできない人は異性と出会うこともうまくできないでしょうから、そのような機会は少ないかもしれません(「上手に面接できる学生の方が危ない」ということではありませんが)。
「医学生の選考が悪い」「教育が悪い」という面が無いとは思いませんが、学校教育にはそれほどの力はないと思います。「教育でなんとかしたい」「教育をよくすれば」という思いを抱く人は少なくないのですが、教育に携わる人が言うときそれは過大な「幻想」であり、教育に携わっていない人が言うときそれは「責任転嫁」です。
戦後の教育に批判的な人たちは、民主主義教育が「行き過ぎた個人主義」を蔓延させ、自己中心の人が増えたことが今日の社会を悪くしていると言います。けれども、周囲の人たちの醸し出す流れに逆らいにくいこの国では(その姿勢が戦争を遂行した面がある)、個人主義がもっと徹底されるほうが良いと思います。アメリカはいろいろ問題がある国ですが、選挙で選ばれた大統領に対しても異議が言い続けられ、表現の自由が尊重されつつも差別的発言は厳しく糾弾され(インディ500での日本人レーサーの勝利に不快感を示した記者は解任された)、自分の主張について一人でもプラカードを持ってデモをするような個人主義の強靭さがあります。そのような個人主義はもっとこの国にある方が良いと思いますし、だから私は、日本がアメリカの顔色を窺っている関係であるほうがまだかなり「まし」だと思っています(ただし、トランプのアメリカは危ないかもしれない)。
2012年の自民党の憲法改定草案では、現憲法の「個人」が「人」に置き換えられているそうですが、個人というのは「神に対してひとりでいる人間、また、社会に対して、窮極的な単位としてひとりでいる人間、というような思想とともに口にされてきた」のだそうです(柳父章「翻訳語成立事情」岩波新書1982)。「個」という文字の有無による違いは、小さくはないようなのです。「個人主義」は自分と他の人を同じように一人の個人として尊重するものであって、自分の利害のみに拘泥する「自己中心」とはベクトルが違います。個人主義は、どんなに徹底しても行き過ぎるということはないと思います。
人は、教室で教えられることから学ぶのではなく、社会のありようを見て学ぶのです。人は、教えを垂れる人の生き方をみて学びます(隠されたカリキュラムです)。自己中心の生き方をしている大人の姿(政治屋はその典型)は、教育そのものです。今の政治家は戦後生まれがほとんどでしょうが、私が見聞きした戦前の教育を受けた政治家たちも自己中心の生き方をしているとしか思えませんでした。この国の政治も経済も本質的には「自己中心」の思想で貫かれていますから、その体質は個人にもしみ込んでいます。そして、その反省なしに自分のことを棚に上げて他をあげつらう(責任転嫁する)人間を見てきた人は、同じことをするようになります。
「教育勅語によいところもある」と言う人たちは、部分的な正しさがあることを根拠に根本が誤っているものを擁護するような詭弁を弄しているのですが(「八紘一宇は良い意味のことを言っている」と言った政治家らしい人もいました)、その姿を見せることで詭弁を弄することを是とする人間を作ります。
教育勅語を称揚する人たちは、本気で過去の遺物を未来への拠りどころとしたいのでしょうか。未来のためには、未来を遠望する新しい思想が必要なのではないでしょうか。新しい思想を作ろうとする姿勢そのものが、未来への希望を人の心に生み出します。過去の遺物にしがみつくことは伝統を守るということとは全く違います。「東洋人が西洋音楽をするということは、その伝統と必死に格闘することであり、それが実は伝統を守るということだ」というようなことを小澤征爾が言っていたと思います。
自らの過去と格闘しないで、過去のスローガンを唱えたり過去を美化したりすることから未来が生まれるはずがありません。政策を批判する側の人たちも、古い革袋に古い酒を入れていることが少なくないので、ますます未来は明るくないと感じてしまいます。
遺伝子治療が生管理を進めるように、今日では人を支配するのは科学と情報です。生管理社会の「強権」と比べれば、「治安維持法の復活」というような法律の果たす役割はかなり小さいという気がします(無視して良いとは全く思いませんが)。「医者は良い人でなければ」という「信仰」も、生管理を推進する大きな力です。そのような流れに抵抗できるだけの、有効な論理を私たちはまだ手に出来ていません(もっと悲観的に「もう私たちは手にすることができない」「『逃走』しかない」と考えている人たちもいます)。
教育勅語を幼稚園児に唱和させることや、その幼稚園を称揚する人たちの存在はカリカチュアでしかありませんが(軽視して良いと思っているわけではありません)、国家体制維持のために教育を使いたいと思うのは権力者の常です(右も左も)。みんなに合わせる人間を作ろうとすることは、もともと教育の持っている体質です。それゆえ、教育は権力と親和性があります。教育の先には、いつだって「非国民」という言葉が見え隠れします。
だからこそ、個人主義が大切なのです。「一人の人間の生をかけがえのないものとして尊重する」のが医療なのですから、医師の仕事は、患者さんの生き方に枠をはめるのでなく、「自己中心」「わがまま」に見えることを含めて患者さんの思いを「護る」ことです。医師自身が、一個人として、権威や周囲の流れに吞み込まれることを拒む生き方を自ら選び取っていなければ、そのようにはできないでしょう。小熊英二の「『大日本帝国の虚妄』に賭けるよりも、『戦後民主主義の実在』に立脚する方を選びたい」(朝日新聞2017.5.25夕刊)という言葉も、ここにつながるでしょうか。
医学教育の現場を見ていても、新しい専門医制度のプランを見ていても、教育の体質をしっかり持っています。そのような中で、それでも「流れに吞まれない」生き方を選び取っている若い医師たちも少なくはありません。そこには未来への希望があります。「でもな、人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにも出来ないからね」(「耳をすませば」月島雫の父親の言葉)とも、言っておかなければならないのですが。(2017.06)