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No.281 「インフォームド・コンセントが定着した」?

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 研修医採用試験で「日本ではインフォームド・コンセントが定着しましたが」という学生に、何人も会いました。「未来への漠とした志向」しか表わしていないカタカナ語なのに、それが定着するとはどのようなことなのでしょうか。定着したのは「漠とした」=「いかようにも意味が取れる多義的なもの」としてそれぞれが自分流に解釈して自分に都合よく利用する姿勢です。
 そこでは、インフォームド・コンセント・ICという言葉は、すでに記号化しています。記号化され「消費」されるだけのものになりつつあります。同意書の記載と同義だと思ってしまう人が増えるばかりです。記号化されたインフォームド・コンセントは、医療者の「思惑」に患者さんを誘導するためのよりスマートな(そして、より逆らい難い)道具に「成り下がっている」ということはないでしょうか 1)

 インフォームド・コンセントが記号化されたものとなっているのですから、「ICを取る」という日本語はむしろ適切な日本語です。「得る」と言っても似たようなものです。日本語で「同意」と言ってみても、「取る」でおかしくありません。「『ICを取る』という言い方はおかしい」と言われても、医療者は何を批判されているのかわからないでしょう。せいぜい「じゃあ、これからは『得る』にしておこう」と思うだけです。それは記号化されてしまった結果であって、その医療者の責任とは言えないのです。
 「取る」も「得る」も上からの言葉でしかありません。他人を見下ろす位置に自分を押し上げようとする力が自分の心の奥からこみあげてくるのは人の常ですが、医療や教育の世界では特にその力が強く働くようです(だから、医学教育に関わる人間は二重に「危うい」のです)。

 インフォームド・コンセントについての修士論文(法学政治学研究科)で「インフォームド・コンセントの日本語訳は『説明に基づく承諾』や『納得診療』など一定していない上、以上のような訳では患者の自己決定という側面が見えにくくなることから、本稿ではそのままインフォームド・コンセントと記すこととする」と書かれていました。指導教員はこれで許したのでしょうが、自分の研究の中核となる言葉が現に多義的かつ曖昧に用いられているのに、その言葉をきちんと日本語で定義づけしないで論を進めることは困難ではなかったのでしょうか。
 私は、インフォームド・コンセントを「医療者の説明に患者さんが納得した上での、患者さんと医療者との合意」と考えています。「コンセント」に「合意 2)」という言葉をあてれば(コンセンサスと考えれば、この日本語の方が近い)、「取る」「得る」と言う言葉が続かなくなります。その言葉には「自己決定」という意味合いも入ると思いますが、決定を患者個人の責任に押しつけるものにもなりません。自己決定という言葉には、「『絶えず〈選択〉を迫られること』についての選択の余地の無さ、それが『生きづらさ』の内実だと言ってもよい」(大黒岳彦「情報社会の〈こころ〉」現代思想45.15 2017)という宿痾がつきまといます(院生は、そのあたりのことも感じてくれているかな)。
 ある意味で「インフォームド・コンセントが定着した」とは言えるのでしょうが、患者さんと医療者とが「合意」することとしては定着していなさそうですし、患者さんのためのものとは反対の方向に進んでいるかのようです。「インフォームド・コンセント」という言葉でわかったつもりになっている学生の勘違いを修正するには時間がかかりそうです。掛け違ったボタンは、いったんぜんぶ外さなければなりませんから。(2017.09)

1) インフォームド・コンセントという言葉を用いない医療者の中に、記号化されたインフォームド・コンセントの陥穽に陥ることを避けようとして意識的に用いていない人がいるようだと、最近感じています(いろいろな医師のホームページを見ての感想です)。

2) 「合意」とは意見や結論が一致することではありません。「お互いに意見が合わないね」「結論については物別れですね」と認め合うことも「合意」です。

コミュニケーションのススメ 日下 隼人 コラム

● 本コラムの内容は、著者 日下 隼人の個人的な意見であり、マイインフォームド・コンセントの法人としての考え、および活動に参加しておられる模擬患者さんたちのお考えとは関係ありません。

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